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Soh
『無我(アナッター)、空性、摩訶(マハー)と平凡、そして自然円満について』

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あわせて参照: 「I AM 体験後の二種の非二元的観照」 「+A と -A の空性」

(最終更新:2009 年 3 月 14 日)

記事執筆:Thusness/PasserBy

不思議なことに、近ごろフォーラムでアナッター(無我)の話題がたびたび浮上します。 おそらく「縁(yuan)」が熟したのでしょう。 ここでは私の「無我」経験についての所感を走り書きします。権威づけではなく、あくまで気軽な共有です。

次の二つの偈(スタンザ)は、私を無我の直接経験へ導くうえで決定的でした。 どちらも無我について同じことを述べているように見えますが、この二偈を観じていくと、空性の側面と非二元の光明性の側面という、性質の異なる二つの体験的洞見が得られます。 それらの洞見は、私たちの「気づき(アウェアネス)」に対する常識的理解と大きく矛盾しており、非常に啓示的です。


考えることはある、考える者はいない 
聞こえることはある、聞き手はいない 
見えることはある、見る者はいない

考えるとき、ただ思考 
聞くとき、ただ音 
見るとき、ただ形・相・色


先へ進む前に、これらの偈は推論や演繹・帰納では正しく理解できないことを強調しておきます。 ここに神秘や超越という意味はありません。 ただ、雑談めいた思考の道筋が「誤ったアプローチ」だということです。 正しい技法はヴィパッサナー、あるいは「あるがままを見る」ための、より直接的で注意深い裸の観察です。 付け加えると、非二元の洞見が熟すとそのような知り方は自然なものになりますが、それまでは多少の「努力感」を伴いがちです。

第一の偈に入るにあたり、前提を明らかにします。

第一偈の初見から際立って現れる二つの体験は、作者の「七段階の洞見」における第 5 段階へ直結する鍵となりました。

第一の偈について。

ひとつ目は、経験を結び付け調整する「行為者性」の欠如です。 ふたつ目は、主体(エージェント)の不在を直接に看取することです。

「私」という連結がないとき、諸現象(思考・音・感覚など)は泡のように、自由に・自発的に・無辺際に浮かび現れます。 行為者性の不在とともに、深い自由と透明さの感覚がやって来ます。 逆説的に聞こえるかもしれませんが、これは経験的事実です。 「自性(本質)がある」という把持が強いと、自由を「無為・相依・相関・光明・非二元的プレゼンス」として見る理解が阻まれます。 いかに「本質視」が視野を狭めるかは驚くべきことです。

もうひとつは、主体の不在を直接に見抜くことです。 ここでは「主体がいない」とはっきり認識されます。 あるのはただひとつの思考、そして次の思考。 したがって、いつでも「思考が思考を見ている」のであって、「見張り役が思考を見ている」のではありません。 ただし、この洞見の眼目は、解放の自発性の味わいと、諸現象の空なる性質へのかすかな一瞥に偏ります――すなわち、移ろいは泡のようで、実体性や堅固さはないということです。 この段階で、現象と気づきの「空(から)」の性質をすべて見通したと早合点しがちですが、そうではありません。 :)

条件しだいでは、「つねに思考が思考を見ているのであって、見張り役が思考を見ているのではない」「見張り役とはその思考にほかならない」ことが自明でないかもしれません。 これは解脱の道で決して取り違えてはならない肝心要の洞見なので、あえて不遜に聞こえる物言いをします。 「思考は起こるにまかせて、背景の鏡は完全で不動」などと説く師家がいるなら、 失礼ながら、それは耳触りはよいが迷妄の言説です。

そうではなく、思考の背後に誰もいないと見よ。 最初はひとつの思考、そして次の思考。 洞見が深まると、ついにこう明らかになる―― つねにただこれ、「唯一の思考」! 不生にして、光明にして、しかも空!

これこそが無我(アナッター)の眼目です。 すなわち、背景はそもそも実在しないと徹底して見抜くこと。 実在するのは流れ・働き・カルマだけです。 行為者も行為された何かもなく、あるのはただ行為だけ。 瞑想者も瞑想もなく、あるのはただ瞑想中であることだけ。

「見張り役が思考を見ている」という構図は、思考が起こり滅びるのを見張り役が不動で許しているという印象を生みます。 これは「手放し」に見せかけた保持であり、まやかしです。 そもそも背景などなかったと見抜かれるとき、現実は丸ごとひとつの「手放し」として立ち現れます。 修習が進み洞見が熟すとともに、意図はやせ細り、なされることは自発の出来事として体験されます――まるで宇宙が仕事をしているかのように。 さらに縁起(因縁所生)の示唆を取り入れると、この出来事が「すべてがすべてと相互に関わり合っている」表現として見抜かれます。 「宇宙」を実体化しなければ、そこにあるのはただ「どこでも・いつでも、ちょうどそのまま正しい」相依相関の表現だけです。

これが理解されると、実践は「いま起こっていること」にただ開くことに尽きます。 この「ただの出来事」は、どこでもいつでも、ちょうどそのまま正しい。 住処と呼べる場所はどこにもないのに、いたるところが家なのです。

安らぎの大いなる実践が熟すと、体験はマハー――偉大・奇跡・歓喜――となります。 見る・食べる・味わうという日常の営みが、詩的に言えば、まるで全宇宙が坐禅しているかのように表現されます。

語られ表現される事柄はみな、 「すべてのすべてが相依相関して」 「この刹那の生き生きしたきらめきとして」 起こっているという、同じ真実の別の風味にすぎません。

そのころには、無常の出来事は最初から完全な仕方で起こっていると明らかです。 解かれるべきものは解かれ、現れるべきものは現れ、行くべきときに静まります。 問題があるのは無常の出来事ではなく、「余計な鏡」という再実体化――抽象する心の力――です。 完全なのは鏡ではなく、出来事そのものです。 鏡が完全に見えるのは、二元的で本質主義的な見方をしている場合だけです。

深く染みついた本質視・二元視は、「光明の側面」をさりげなく見張り役へと擬人化し、 「空の側面」を移ろいへと追いやってしまいます。 実践の最大の課題は、光明と空が本来一体であり、けっして分かれ得ないと、明晰に見ることです。

第二の偈について。

第二偈では、移ろいそのものの生々しい純粋性に焦点が当たります。 思考・音など、あらゆる移ろいは気づきと区別できず、体験者‐体験の分裂はありません。 ただひとつの継ぎ目のない自発的体験が、思考者/思考・聞き手/音・感受者/感覚として現れるだけなのです。

「I AM」体験――存在の純粋感覚――は忘れがたいほど強烈です。 背景が消えると、あらゆる前景の現象がプレゼンスとして自己をあらわにします。 ただ一つの、継ぎ目のない自発的な体験が、思考者/思考・聞き手/音・感受者/感覚として顕れるだけなのです。 いま・ここで自然に「ヴィパッサナー的」で、ただ裸の気づき。PC のノイズ、電車の振動、足裏が地面に触れる感覚――これらがことごとく水晶のように明晰で、「I AM」に劣らず「I AM」なのです。 プレゼンスはまったく失われていません。 :)

主客の分離はただの思い込みです。 だから、捨てる者も、捨てられる何かも、幻想です。 自己が透き通るほどに、現象もますます光り輝きます。 透徹しきった透明性のうちで、すべての出来事はきわめて明瞭に・生々しく見えています。 どこも明らか、いたるところ生気に満ちています!

そのころには、この事実を覆い隠しているのは深く染みついた二元視だけだと明らかです。 実際の体験には、現象の透明な明晰さの現れ以外、何もありません。 この体験が熟すと、身心は非二元の光明性そのものへと溶け、 すべての現象は、この非二元の明るいプレゼンスの顕現だと体験的に理解されます―― これが「一切は心」という洞見へ導く要点です。

とはいえ、有頂天になることなく、さらに検証を進めましょう。 この非二元の光明性に、独立・不変・常住といった自性の性格は見いだせるでしょうか。 実践者は、知らず知らず非二元のプレゼンスを実体化し、しばらく足止めされることがあります。 これは七段階の第 4 段で述べた「一枚鏡の痕跡」です。 体験が非二元でも、空の洞見はまだ現れていません。 二元の絆は十分に緩んでいても、本質視は根強く残っています。

「主体」が破られると、体験は非二元になりますが、私たちは「客体」を忘れがちです。 客体がさらに空じられると、法身(ダルマカーヤ)が見られます。 「主体」として最初に見抜かれるのは、五蘊を寄せ集めた単なるラベルにすぎません。 次に否定されるべき段階では、空じられるのはラベルではなく、非二元の性質をもつまさにそのプレゼンス自身なのです。

非二元の洞見が熟した仏教徒であれば、なぜ仏陀が縁起をそれほど強調したのか自問するでしょう。 その体験はなおもヴェーダーンタ的で、「梵(ブラフマン)」的であって「空(シューニャター)」的ではありません。 この「非二元プレゼンスの堅固さ」は、縁起と空性の助けによって打ち砕かれねばなりません。 こうして、非二元プレゼンスの「空(相依・無自性)」の性質が理解されます。 これは第一偈の趣旨に即した、無我体験のさらなる洗練です。

「I AMness」の実践者は、非二元の洞見の後、非二元プレゼンスに留まりがちです。 彼らは「薪を割り、水を運ぶ」「春が来れば草自ずから生ず」を悦びとします。 体験は最終のように見えるため、多く強調できることはありません。 願わくは、彼らが見ることを妨げているこの微細な痕跡に気づけるような縁(条件)が生起し成熟しますように。

空について。

思考を観察して、「どこで」「どのように」思考が生じ、「思考」とはどのようなものかを問うなら、 思考の性質は空――鮮やかに現れていながら、まったく捉えられない――と明らかになります。 推論ではなく、全身で「不可得・不可所在」を感じ取ることが重要です。 そこには「どこか」にあるかの印象が生じますが、決して特定できません。 「ここ性」「いま性」もまた、感覚がつくる印象にすぎず、諸縁の集合であって、固有の「そこ」はありません。 それは「自己性」と同じく空です。

この不可得・不可所在の空なる性質は、思考だけの特性ではありません。 あらゆる経験・感覚がそうです――鮮やかに現れていながら、実体なく、掴めず、自発的で、居場所を定められないのです。 たとえば赤い花を見て、その「赤さ」は花に属するように見えますが、実際にはそうではありません。 犬など色覚をもたない動物には赤は現れませんし、心の固有属性でもありません。 量子的な視力で原子構造を覗いても、「赤さ」という属性はどこにもありません。 現れはすべて相依って生じるため、自性・固定的属性・形・色といった固有性は空です―― ただ光り、しかも空、固有の客観的実在なき「ただの現れ」にすぎません。

焼ける火の前に立つとき、「火」全体、焼ける熱、「熱さ」という感覚はあまりに生々しく現れます。 しかし検証すれば、そこに固有の「熱さ」があるわけではありません。 条件が具わるときにかぎって、相依って自ずと現れるのです。 しかし、この見えにくい微細な痕跡――見ることを妨げている印――が見抜かれるための縁(条件)が熟すことを、ただ願うばかりです。

すべての経験は空です。 それは空中の花のようであり、池の面の絵のようです。 体験のどの瞬間を指して「内」だ「外」だと言い立てることはできません。 「内」は「外」と同じく、気づきにとっては継ぎ目ない体験のみがあるのです。 重要なのは鏡(池)ではなく、池の表面に絵がゆらめくという、そのプロセスです。 幻のようでありながら幻ではなく、夢のようでありながら夢ではない―― それがあらゆる体験の地盤です。

しかし不可得・不可所在だけがすべてではありません。 もう一方には「摩訶(マハー)」――境界のない大いなる相互連関の感覚――があります。 誰かが鐘を打つとき、人・棒・鐘・空気の振動・耳、そして不思議に現れる音―― 「トーン……と余韻がひびく」――これはひとつの継ぎ目なき出来事、ひとつの体験なのです。 息をするときも同じです。ただこの全体の呼吸。 宇宙全体がこの呼吸をしているかのように、すべての条件が一体となって立ち現れるのです。 このマハーの意義は言葉を超えています。これなくしては、むしろ、この体験がなければ、非二元は不完全です。

私たちの空なる本性の体験は、非二元の一如の体験とは異なります。 たとえば「距離」は、非二元の一如では主客分割の見破りによって超えられ、ひとつのプレゼンスとなります。 しかし空の体験は、不可得・不可所在の性質によって境界を破るのです。

この性質に深く入り込むとき、「どこ」や「いつ」や「誰」を要しません。 音が聞こえるなら、音は「内」でも「外」でもなく、そこに現れては消えるだけ。 縁起・空の智恵によって、いかなる中心も基準点も溶けます。 「どこで・いつでも、ちょうどそのまま正しい」という感覚が生まれます。 どこも家のように感じられるが、家と呼べる場所はどこにもありません。 プレゼンスの空なる本性を体験するにつれ、非二元プレゼンスが残していた微細な痕跡は溶けます。 それは涼やかです。プレゼンスはいっそう自在で、力みは抜けていきます。 「生々しい非二元のプレゼンス」から、「生々しく非二元に現れているが、何ものでもない、空だ」へ。

マハーと平凡について。 

マハーという体験は、何か特別な体験を追い求めることではありません。 むしろ、空(シューニャター)は本来的にマハーなのだと見ることです。

禅の「平凡」の強調と矛盾するように見えるかもしれません。 しかし平凡とは、非二元とマハーの真如が、これ以上でもこれ以外でもないことを言います。 到達すべき別世界はなく、日常から離れた状態もありません。 むしろこの本初・原初・汚れなき非二元とマハーの体験を、もっとも平凡な行為へ持ち来すことです。 それが日常の大半で見出せないなら、洞見と実践はなお未熟です。 重要なのは鏡でも池でもなく、池の面に絵がゆらめくというそのプロセス――幻のようでありながら幻ではなく、夢のようでありながら夢ではない――なのです。

かつて、マハーは自然状態の中で稀に起こる出来事で、一過性のものと見なしていました。 呼吸や歩行や鐘の音など、一つの対象を短時間繰り返し丁寧に味わう集中によって、マハーを誘発していました。

……しかし非二元のプレゼンスに縁起の見方を取り入れて以来、年を経るごとに、マハーは「より手近なもの」になりました。 そして最近、マハーが自然で努力のいらないものとしてはっきり到来しました。 空において、マハーは自然であり、どの体験にも完全に織り込まれねばならないと直観されました。 とはいえ、マハーを地盤とするには非二元の熟成が求められます。 分断された心のままでは、すべてが自発的に生起してこの刹那の生々しい現前として現れる、その全体的な相互連関をまるごと感じ取ることはできません。

宇宙は、この起こる思考です。 宇宙は、この起こる音です。 ただこの壮麗なる起こり――これが道(タオ)です。 あらゆる起こりに礼拝を。

自然円満について。

これら二つの体験が相互にしみわたるとき、求められるのは、起こるものを開かれたままに・ためらいなく経験することだけです。 簡単に聞こえるでしょうが、この単純な道の深さを侮ってはなりません。 劫にもわたる修行でも触れ得ないほどの深みがあるのです。

実のところ、「第一偈」「第二偈」「空について」の各節には、すでに自然の道への強調があります。 自然なプレゼンス、そして起こるものを開かれたまま・ためらいなく・恐れなく経験することは、いずれの宗派の独占物でもありません。 禅・マハームドラー・ゾクチェン・アドヴァイタ・道家・仏教――いずれの看板にも属さないのです。 誠実な修行者であれば、非二元の体験が熟すにつれ、必ずこの自然の道に至ります。 それは血肉のように自然で、他の道はあり得ないのです。

ただし自然の道は誤解されやすい。 「何もしない」「修行不要」ではありません。 むしろ、無我・空・縁起の洞見を何度も洗練させたのち、 アナッターは印(法印)であって段階ではない、 非二元の光明性と空は、つねに・もともと・すべての体験の「地」であった―― という最深の洞見が明るみになるのです。 そのとき実践は「集中」から「無労」へと転じます。 それには、非二元と空の洞見が、かつて「二元視・本質視」が意識を浸していたのと同じくらい、全存在へとしみとおることが必要です。

いずれにせよ、私たちの空で光る本性を形而上の実体へと仕立て上げないよう注意しましょう。 ここで、別のブログ「Luminous Emptiness」に書いたコメントで締めくくります。 それは本稿の要点をよく要約しています。

「どれほど作為がないか」は、 「どれほどためらいなく・恐れなく、起こるものに開くか」の度合いです。 起こるものすべてが「心」。つねに見られ・聞かれ・味わわれ・経験されています。 見られず・聞かれず・経験されていないもの―― それは、私たちが「心」と思い描く観念にすぎません。

「輝き・清らかさ」を形なき実体として客体化するなら、 それは掴着の対象となり、 「形(フォーム)」――気づきの質感・織物――を見ることを妨げます。 客体化の傾向は微細です。 「自己性」を手放しても、知らぬ間に「いま性」「ここ性」を掴んでしまいます。 起こるものはことごとく、縁って自ずと現れます。「誰が」「どこで」「いつ」を要しません。

すべての経験は平等で、光りながら自性をもたない。 空であっても、その鮮やかな光りを否定しません。 解放とは、心をそのまま経験すること。 自解放とは、「この解放はつねに・もとより・すでにそうであった」と徹底して見抜くこと。 自発に現前し、自然に円満しています。

追伸:空の洞見を非二元の光明性より「高い」と見なしてはなりません。 条件の違いによって、どちらの洞見も先に顕れることがあります。 より概念的な理解のためには、Greg Goode 博士の “Non-Dual Emptiness” を参照してください。

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2020年のアップデート(ソウより)。 本稿に関連する引用をいくつか挙げます。

「自分にとっては無我(アナッタ)の連句こそが、いまだに最良の“引き金”…(笑)。 それによって、無我が自然本来の状態であることをはっきり見ることができます。 それは常にそうであり、そして無努力にそうなのです。 それは、いわゆる『物や現象』の分離や実体性という誤解を、無明がいかに覆い隠し、作り出すのかを示してくれます。」 「そして見解を悟るということは、高みから低みまで一貫して、心がどのように世俗的存在を真で実在だと取り違え混同するのか、すべてこの無我という真理を指し示しています。 縁起と空は、心が作るあらゆる世俗性を釣り合わせ中和する筏であり、それによって心は自然な安らぎと均衡に憩い、すべての生起を自ずから円成したものとして見ます。」— ジョン・タン、2019年

「『アナッタ(無我)』が“段階”ではなく“法印”であるという洞察が起こらねば、『無努力』のモードへとさらに進むことはできません。 つまり、無我はあらゆる体験の地であり、常にそうでありつづけ、私(I)はいません。 見るにおいては、いつでもただ見るのみ。 聞くにおいては、いつでもただ音のみ。 そして思うにおいては、いつでもただ思いのみ。 努力は要らず、いまだかつて『私』がいたことは一度もありませんでした。」— ジョン・タン、2009年

「以下について正しく思索してください: [https://www.awakeningtoreality.com/2021/07/anatta-is-dharma-seal-or-truth-that-is.html](https://www.awakeningtoreality.com/2021/07/anatta-is-dharma-seal-or-truth-that-is.html) と [https://www.awakeningtoreality.com/2022/08/bahiya-sutta-must-be-understood-from.html](https://www.awakeningtoreality.com/2022/08/bahiya-sutta-must-be-understood-from.html) (無我を“法印”として理解するのであって、単なる無心状態としてではない)」— ソウ、2020年 「無我の第一・第二の両連句を徹底的に突破しなければ、AtR の定義における本来の無我の徹底・明解な悟りはありません。 2010年10月の最初の突破では第二が私にはより明瞭でしたが、その後の数か月で第一連句も次第に明瞭となり、さらなる基盤の解体が進みました。 そこには“ここ/今”へのきわめて微細な基盤づけや、心への微かな参照さえも含まれていました(それらはすでに大方は解けていましたが、見えにくい微細な傾向が後に見抜かれ、解消されました)。」— ソウ、2020年

「TD Unmanifest 3時間前 · 私の実践では、客体を空じることよりも、主体を空じることの方が“容易”だと感じてきました。 つまり AtR の言い回しでは、第二連句より第一連句に取り組むことです。 蘊と界の空性を観ずることは、無我の悟りを深める上で非常に役立ちました。 残余の『私・我・わがもの』に潜む業習気を根こそぎにするために働いています。 しかし、第二連句とプレゼンス、縁起、そして空から“全力作用”へと関連づけられる、客体に対する同種の透徹を助けた実践について興味があります。 4件のコメント コメント」

ソウ・ウェイ・ユー バッジ・アイコン 「無我の両連句は無我に関するものであって、蘊の空性そのものではありません」 1

TD Unmanifest 「ああ、私は第二連句に関するこの節を、蘊や対象に焦点を当てたものだと誤解していました: 『“主体”が消えると、体験は非二元となるが、私たちは“客体”のことを忘れている。 客体がさらに空じられると、法身(ダルマカーヤ)が見えてくる。 “まず主体”の貫通の場合、それは五蘊を寄せ集めた単なるラベルにすぎないが、次の段階で否定されるべきなのはプレゼンスである——それはラベルではなく、非二元的な性格をもつまさにそのプレゼンスだ』。 私は主客の観点から熟考しており、とてもよく進展して無我を深めてきました。 ですから自己/自己(Self)はどこにも見いだせず、常にすでにそうなのです。 しかし意識の対象は、明らかに“自己”ではない一方で、“実在的”に見えることがあります。 それはただ蘊などにすぎません。」

ソウ・ウェイ・ユー 「それは、無我の洞察をあらゆる法に適用することを促すリマインダーです。 両連句は自己/自己(Self)の錯覚を標的にしています。 しかし、その後にこの洞察を一切法へと適用して、二重の空(人無我と法無我)を悟らねばなりません。 たとえば、『吹くことのほかに風はない( [https://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/08/the-wind-is-blowing.html](https://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/08/the-wind-is-blowing.html) )』という無我の洞察は、その後すべての法——運動を含め——へと適用されねばなりません。」 2011年:「私は、最初の偈と第二の偈は、真の無我の洞見に向けて、出発点においてさえ相携えるべきだと述べている。 あなたは無我におけるこの二側面の洞見を備えねばならない。 では無我とは何か。 行為主体の不在を貫いて見抜くとき、あなたはまさに直接の洞見を育んでおり、余計な何かを実体化しているのではない。 それは如実への直接洞見である。 だからこそ「自己」を見るとき、そこには五蘊以外のものは何もないと見え、「天候」を見るとき、そこには移ろう雲や雨だけがあり、「身体」を見るとき、そこには変化し続ける感受があり、「音」を聞くとき、あなたは縁起(DO)を見る——すると二重の空性が単一の洞見にほかならず、なぜそれが一合相(yíhéxiàng;一つの総合的現れ)へと至るのかが見えてくる。

もし洞見がなく、ただ言葉に執着するなら、本質を逸しているのだ。 つまり、二つの偈における洞見の獲得は、「自己」のことだけを考えるためではない。」 — ジョン・タン、2011年。 会話 — 2020年7月27日。

ジョン・タンは言った、「私にとって、主語‐動作‐目的語というのは、世界を語り、意味づけるための助けとなる枠組みにすぎない。 私は世界をそのようには見ない。 私には、それは『現れ‐条件』の全力発揮(総働)として見えるのであって、『現れ と 条件』という二項ではない。」

ソー・ウェイユーは言った、「TD Unmanifest の話に触れているのですか?」 ジョン・タンは言った、「そうだ。 もしあなたが客体を主体から切り離して見たり、諸法を心から隔てて見たりしているなら、どれほど解体しても、それは単なる知識にとどまる。 何ものかの直接の味わいに到ることはないだろう。」 ソー・ウェイユーは言った、「しかし、すべての条件が現れているわけではありませんよね。見えないまま直観されたり推量されたりする条件もあり、それらは単に世俗的なものにすぎません。」

ジョン・タンは言った、「もちろんだ。関与する条件をすべて知る術はない。 ここで言いたいのは、現れというものはただ現前するだけではない、ということだ。」

ジョン・タンは言った、「そして、主体と客体の双方を解体していく過程を通るとき、『広がり』の体験もまたある……その体験は『身心脱落』のようだ。」 (以下、会話は次パートへ続く。)

「音しかない。」 ジオヴァニ・ジオはこう書いた。 私たちは音を聞く。 即座に、深く刷り込まれた条件づけは「聴く(聴覚)」だと言う。 しかしそこには誤謬がある。 あるのはただ音だけだ。 究極的には、聞き手も、聞くという行為もない。 他のすべての感覚についても同様である。 中心化された、拡張された、あるいは零次元の固有の知覚者や「アウェアラー」は錯覚である。 thusness/ジョン・タン: とても良い。 これは二つの偈の両方が明晰であることを意味する。 聞くことにおいて、聞き手はいない。 聞くことにおいて、ただ音だけがある。 聞くという行為もない。

ジョン・タンは二〇二二年にこう書いた。 「……思考の重さ――第一部」 熟考するとき、熟考を単なる思考上の推論練習に留めてはならない。 たとえば、こうである。 現れるものは「内」でも「外」でもない。 「内なること」という観念は「外なること」という観念に依存しているからであり、どちらもなければ「どちらでもない」という感覚は起こりえない。 それゆえ両者はいずれも単なる慣習であり、依存して起こる。 熟考をこの水準に留めてはならない。 そうしてしまうと、自由はせいぜい精神的な水準にしか残らない――ただ透明で清澄で清潔な状態にすぎない。 それは生の注意を実践するのと何ら変わらないが、概念がいかに心を増殖させるかという洞察は起こりうる。 しかし、さらに一歩進めて、私たちの感覚、思考、匂い、色、味、音に直接関係づけ、こう問うべきである。 「『思考は頭の内でも外でもない』とはどういう意味か。」 これを見抜くことは、はるかに貫徹的である。 それは、実時間の生きられた経験として、深い虚幻性と神秘的な畏れをもたらす。

「……思考の重さ――第二部」 思考はどれほど重いのか。 その根はどこにあるのか。 霊性の世界では、「『私』はただの思考にすぎない」とか「思考は空で広々としており、重さも根もない」といった言い回しがよく聞かれる。 「思考」の根無し性や空間のような性質が指摘されるべきなのは確かだが、だからといって人は何かを見抜いたと誤解してはならないし、ましてや「私/わがもの」「身体/心」「空間/時間」などの深く根を張った概念的観念を抜き取ったなどとは到底言えない。 それゆえ、コインの裏面にも同様に重点を置かねばならない。 「思考」は驚くほど重い――まるでブラックホールのように(ピンホールほどの大きさで、星ほどの重さ)。 それらが運ぶ概念的観念の「根」は私たちの全存在を貫き、到るところに浸透している。 思考の「根」はどこにも見出されないということは、そこらじゅうどこにでも、あらゆるところに見出されうるということでもある。 それは三時と十方――現代的に言えば、多元宇宙の異なるタイムラインにわたって広がっている。 言い換えれば、「これが起これば、あれが起こる」である。

無我において、私たちは自己を心的構成として見抜き、自己から一切の法、そしてそれらのあいだの関係に至るまで、すべての心的構成から自らを解放する脱構築の旅へと踏み出す。 しかし、縁起を見るとき、何も排除されない。 概念化は残り、部分は残り、因果は残り、自己は残り、他者も残る――すべてが残る。 ただし、「本質がある」という誤った見解だけが放下される。 それらを実体的に存在すると見る代わりに、いまやそれらは依存して起こるのだと理解される。 そして、依存して起こるものは何であれ、四対の両極(すなわちナーガールジュナの八不)から自由である。 縁起と空を理解しなければ、あらゆる戯論から自由な自然成就は歪められてしまう。

また参照: https://www.awakeningtoreality.com/2013/04/daniel-post-on-anattaemptiness.html (注:そこには空の二つの相が表明されている。あなたはそれを見分けられるだろうか。)

ジョン・タンはさらにこう書いた。 「あなたが無主体・無基底の見解について語るとき、実体論的レンズからではなく、非実体論的観点から、その論理的含意を明確にしなければならない。 体験を強調し過ぎ、それを支える健全な論理的基盤を欠くことは、現代世界においては重大な妨げである。 そのようでは、自己を開いていく上で、あなたは大して先へ進めないだろう。 つまり、現れるものがもしこうであるなら、そうであることは成り立たない、というかたちで明晰に見なければならないのであって、空や無自性を公理のようにただ受け取ってはならない。 信仰によってではなく、非の打ちどころのない論理によって理解し、それを実際の経験で裏づけるまで、あなたのあらゆる経験とあらゆる論理を調べ尽くしなさい。 そのとき、心は自らを解き放つ。」

さらなる空の探究のためにこの文章を読んだあとには、次のリンク内のすべての内容を読み、そこにリンクされた他の記事すべてにも目を通して熟考することを、私は強く勧める。 Compilation of Post Anatta Advise

―― 二〇二四年、ソーによる更新。 エネルギーの不均衡を避ける: https://www.awakeningtoreality.com/2024/02/avoiding-energy-imbalances.html ソー: みなさんへの重要なメッセージ。 無我の二つの偈は、次の内容に結びついている: https://www.awakeningtoreality.com/2021/06/pellucid-no-self-non-doership.html [午後八時四十分、二〇二一年六月九日]ジョン・タン:一、ゾクチェンには「自ずからの顕現(spontaneous presence)」という語がある。 私はゾクチェンにおける正確な意味は知らないが、この語は二つの偈の二つの経験と親密に結びついている。

一、無為の主体なきこと=自ずからの顕れ(spontaneous)。 二、ただ現前するものそのものがプレゼンスであること。 私が両側面について書いたのは次の記事で確認できる: https://www.awakeningtoreality.com/2021/04/why-awakening-is-so-worth-it.html 第二偈(mere appearances as Presence)の洞察を悟らなければ、AtRにおいては真正の無我の悟りとは見なされない。 関連: https://www.awakeningtoreality.com/2021/06/pellucid-no-self-non-doership.html https://www.awakeningtoreality.com/2009/03/on-anatta-emptiness-and-spontaneous.html https://www.awakeningtoreality.com/2021/06/pellucid-no-self-non-doership.html http://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/07/i-was-having-conversation-with-someone.html https://www.awakeningtoreality.com/2019/02/the-transient-universe-has-heart.html https://www.awakeningtoreality.com/2023/05/nice-advice-and-expression-of-anatta-in.html 私はまた、無我を悟ったと主張する人の九割九分は、実際には非行為・無為(non-doership)の側面だけで、真正の非二元的無我の体験や洞察には至っていない、と述べたことがある。 さらに、私(ソー)はかつてジョン・タンに、ある教師が無我を悟っていると思うか尋ねたが、ジョンはこう答えた。 「自身の光明の真正性の確認がなく、現れを自らの光明として認識した跡もなく、慣習的構成(ソー:がどのように見抜かれて手放されるか)についての明確な指摘もない。 それで、どうしてその結論に至れるのか。」 また、ある教師の文章にコメントしてジョン・タンはこう書いた。 「『心は大地なり』と言うとき、第一歩は、先へ進む前に心とは何かを理解し味わうことである。 教えが『心とは何か』を教示し味わわせないなら、それは美辞麗句と大言壮語にすぎない。 次に『大地』とは何かを指摘しなければならない。 この『大地』はどこにあるのか。 土壌か、地面か、花か、空気か、建物か、それとも慣習的世界なのか。 それから彼らの言う『全体発揮(total exertion)』とは何かを語るがよい。 そのうえで、心と全体発揮の統合――それが+Aである。」

しかし、第二偈が第一偈より重要だという意味ではない。 第二偈の悟り――主客・能作所作の枠組みを超えた、あらゆる現れとしての澄みきった光明――ののちには、第一偈を深く徹底して貫くことが肝要である。 ジョン・タンが言うように、[無我の後]つねにプレゼンスを強調するのではなく、その光明の本性を強調すべきである。 同様に、他者に無我を語るときも、ただ光明を語るのではなく、非行為(non-doership)をも語らなければならない。 すべては行為者も作者もなく自ら起こる――呼吸や心臓の鼓動ほどに自然に。 これを徹底的に見抜くことで、完全に自ずから・無為となり、くつろぎが生じる。 自然の光明は完全に無努力であり、必要とされる努力はゼロである。 無我と空の深い洞察に運ばせて自己解脱と自然成就へと進み、努力という病と、光明への微細な過集中や執着を溶かしなさい。 かつてジョン・タンは、光明への過度な偏重は避けるべきであり、第一偈(非行為)で補完されねばならないと述べた。 彼は付け加えて、非二元ののちの修行は、開放的で安らぎがあり、実体視から自由であるべきだ――自然に、開かれ、軽やかに、力まず、無為であり、そして無努力そのものを観照せよ、と言う。 この開放と弛緩は、修行において次第に一つのモメンタム(勢い)となって蓄積されるべきである。 さらにジョンは、非行為と全体発揮の関係を理解することが必要だと言う――全体の諸縁がそのまま発揮されることを許容するのである。 片面から見れば、それは光明の完全な「無努力」であり、もう片面から見れば、条件の全体が発揮されることである。 Satsang Nathan の動画は、無我の非行為的側面の良い表現である。 参照:Satsang Nathan Videos

以前にジョン・タンはこうも警告している。「将来の問題を防ぐためには、空性あるいは無能作性(エージェント不在)に非常に深く貫入しなければならない。 つまり、本当に自己感を乗り越えなければならないということだ。 さもなければ、人生の後半で問題が起こる。 少なくとも無能作の状態に至るまで、主観的な気づきとしての自己感が十分に脱構築されるまで、修行しなければならない。 そうでなければ、それ以上は先へ進めない。 もしそうしなければ、後になって、[激しいエネルギー不均衡を経験した誰か]が通ったものよりも悪い問題に直面することになるかもしれない。 Actual Freedom コミュニティのリチャードについて私が話したことを覚えているだろうか?」

「非行為(ノン・ドゥアシップ)と空性に焦点を当てなさい。 そうして、あなたの身心全体が、自動的な解放(リリース)の強いモメンタムを育むまで続けなさい。 そのためには、『本質(エッセンス)』という見方をひっくり返し、身体と心が自らの条件づけを解けるようにすることが必要だ。 空性がいかに解放するかについての強固で安定した明晰さの支えなしに体験だけに集中すると、プレゼンスの強度があまりにも強くなり、後になって対処できなくなる。」

強調しておくと、上で述べたようなモメンタムを修行の中で築くことは極めて重要である。 ジョン・タンの言葉を言い換えれば、「一定のモメンタムが築かれるまでは、規則的に修行し、見かけ倒しの“知恵”に走るのは控えなさい。 そうして初めて、Xの問題に関わる困難を克服できると期待できる。 私の助言は真剣だ。 あなたはまだこれらの問題を身をもって経験していないが、いずれ経験したとき、この技芸を身につけることの重要性が分かるだろう。」

もし瞑想を一貫して実践すれば、開かれていくことにも日常生活にも、やがてモメンタムが生じる。 困難が起こったとしても、落ち着いていられ、そのモメンタムに導かせることができれば、あなたはそれらを乗り越えられると気づくだろう。

それは手放しの技法に似ているが、効果的に言語化するのはなかなか難しい。 私たちの生来の傾向は、たとえ自分では違うと思い込もうとしても、執着のほうへ傾く。 だからこそ、一貫した実践が不可欠なのだ。

一日中、あらゆる戯論からの自由や本来の自然な状態や音について語り続けることもできるし、いくらかの洞察を得ることもあるだろう。 しかし、さまざまな理由でこれらの問題に直面すると、あなたのあらゆる執着が前面化する。

死や健康、個人的な異常に関する恐れが立ち上がる。 心はそれらの執着を手放すのに苦労するだろう。」

ジョン・タンはまた以前、Xにこうも伝えた。「あなたには善いカルマがある……ただくつろぎ、無自性が同時に無努力を意味することを理解しなさい。 フォーカスせず、集中しないこと。 無我の洞察の後に、現れが自己の光明(ラディアンス)であるという見方と理解を、ただ洗練していきなさい。」

さらにジョンは私たちの友人Xに書いた。「克服できる。 私も、I AM の後に、過度のフォーカスのせいで、非常に激しいエネルギーの乱れ(エネルギー不均衡)を経験したことがある。 現在のところ私は、まず気晴らしや注意の切り替えを通じて、身体と心を落ち着かせるのがよいと思っている……身体と心は非常に微細なレベルではとても敏感で、隠れた恐れが全体の均衡を揺さぶってしまう。 薬は助けになるし、あなたも用いるべきだと思う。 私たちは非常に注意深くあらねばならない。 心を弛める仕方には、かえって覚醒度が増すものもあれば、煩悩(例えば恐れ)を克服することで心を平安へと鎮めていくものもある。 後者の状態にあるとき、私たちは休み、諸条件にバランスよく応じることができる。」

ジョンは以前、私にもこう書いている。「まず『無努力』に焦点を合わせなさい。 そののち、手放しが進めば、思考を手放し、起こることを、起こるままの起こりとして任せることができる。 ただし後になって『集中できない』と感じるかもしれない——それでよい。 ゆっくり穏やかに、現れは自己の光明であることを想い起こしなさい。 それゆえ光明は本性として努力を超えている……まずはそれに慣れなさい。 どんな現れも、本性として自ずから解放される。」

もしこの側面で洞察と実践が成熟しておらず、それでいて光明が強まり、しかも微妙にその光明へ過度にフォーカスしてしまうと、痛ましいエネルギー不均衡に見舞われる危険がある。 それは眉間のチャクラにエネルギーが滞ること、深刻な緊張、頭痛、不眠(文字どおり夜間の睡眠がゼロで、夜通しの超意識状態——それを成就と誤解する人もいる)、さらにはパニック発作のように感じられるエネルギーの波(“感じられる”と言うのは、精神的な恐れというより身体的な恐れで、非常に緊張した「神経質な」身体感覚として現れる)などへとつながり、さらに悪い症状が出ることさえある。 私自身、2019年に7日間、そのような不快な出来事を経験した(詳細は https://www.awakeningtoreality.com/2019/03/the-magical-fairytale-like-wonderland.html を参照)。 これは医師には治せない「禅病」につながることがあり、私は元の AtR ガイドの全一章をこの主題に充てた。 私は実践の転換によって、その後はこうしたエピソードを再発させずに済んでいるが、似た経験をする人たちを見てきた。 だからこそ、人々が実践で誤った方向へ進まないことを、心から願っている。 どうか気をつけて、よく実践してほしい。

もしゾクチェン(Dzogchen)に関心があるなら、ゾクチェン教師アーチャーリヤ・マルコム・スミス(Acarya Malcolm Smith)師から伝法と教授を受けるとよい(彼もまた、無我における非行為の側面と、現れの光明の無努力性、そして二つの無我の偈の統合を強調している——これは公の著作ではなく、私が受講した購読者向けオンライン教授の中での強調点である)。 そして『The Supreme Source』という書籍を入手するとよい。 その書は、全的プレゼンスの、自ずから完全で、全くの無努力性を明確に説いている。 ただし決して「自己流ゾクチェン」はしないこと。 それは極めて誤解を招く。 むしろその伝統の良師(例:アーチャーリヤ・マルコム)を見つけるべきだ。 シム・パーン・チョンが AtR グループで勧めてくれた、アーチャーリヤ・マルコムのゾクチェン教法の入門としての YouTube 動画(強く推奨): https://www.awakeningtoreality.com/2023/09/talk-on-buddhahood-in-this-life.html また、マルコムの文章の一部はここにもある: https://www.awakeningtoreality.com/2014/02/clarifications-on-dharmakaya-and-basis_16.html 『The Supreme Source』を実修するには、許可(empowerment)と直指(direct introduction)、そして有資格のゾクチェン師からの導きが必要である。 それは断じて、だらけて修行しないことでもなければ、ネオ・アドヴァイタの虚無主義でもない。 その実例: https://dharmaconnectiongroup.blogspot.com/2015/08/ground-path-fruition_13.html

ジョン・タンが共有してくれた良い動画がある。 心・注意・エネルギー・フォーカスは一つである。 実践において、特に気づきの実践者が、集中型のやり方をすると、エネルギー不均衡に至りやすく、エネルギーが眉間に滞る。 気づき系の実践者には非常に一般的であり、眉間、あるいはときにハート・チャクラのブロッケージとして現れる。 しかし無我(anātman)の洞察それ自体は非常に安全であり、無我が十分に現証され尽くしたところでは、エネルギー不均衡は起こりえない。 エネルギー不均衡はすべて、微細な自己化(セルフィング)に結びついている。 だからこそ、二つの無我の偈(第二偈に偏らない)の完全な成熟と現証が、エネルギー不均衡を解消する。

したがって、あなたの実践では、心を丹田(dantien)に据えるべきだ。 エネルギーは頭部に滞らず、流れるべきである。 ソマティック(身体志向)であることは、エネルギー不均衡の克服に役立つ。 壺呼吸(Vase Breathing)を見よ。

[2020年9月5日 11:46 AM]ジョン・タン:「彼(フランク)の記述は気に入っている。 なかなか良いが、エネルギー不均衡につながる可能性がある。 最善は、呼吸法を実践し、エネルギーを静けさへと調整する術を学ぶことだ……」

ソウによるコメント: 呼吸法によってエネルギーを整える一つの良い方法は、壺呼吸を実践することだ。 ここにツォクニ・リンポチェ著『Open Mind, Open Heart』からの抜粋を示す。 「壺呼吸(Vase Breathing) この女性をはじめ数え切れない人々が情動に対処できるよう助けた方法の一つは、lung(風)の中心、すなわち『本来の居場所』に戻すのを助ける実践である。 そのために、私たちは特別な呼吸技法を道具として用いる。 なぜなら、呼吸は、lung の微細な風エネルギーに対応する物理的な相関だからだ。 この技法は壺呼吸と呼ばれ、ヨーガや他のさまざまなクラスで教えられる横隔膜呼吸よりもさらに深く息を吸い込む。 手順自体はかなり単純である。 まず、腹筋を可能な限り背骨に近づけるように収縮させながら、ゆっくり完全に息を吐き切る。 そしてゆっくり吸い込む際、臍の下およそ四指幅、恥骨のすぐ上あたりの領域に息を引き下ろすと想像する。 この領域は壺に似た形をしているため、この技法は壺呼吸と呼ばれる。 もちろん実際に息がその部位へ降りていくわけではないが、注意をそこへ向けることで、ふだんよりいくらか深く吸い込み、その壺領域の膨らみもいくらか感じられるだろう。 息を吸い続け、注意を下へと向け続けると、lung は次第にそこへ向かって移動し、そこで憩い始める。 壺の領域で数秒だけ息を止める——吐き出したい衝動が切迫するまで待たず、次にゆっくりと再び吐き出す。 このように、完全に息を吐き、壺領域へ吸い下ろす呼吸を三回か四回、ゆっくり行う。 三回目か四回目の吸気の後、今度は呼気の終わりに、息のほんの少し——およそ一〇パーセント——を壺領域に保つことを試みる。 その際、lung が本来の居場所に少し留まるよう、軽くやさしく焦点を保つ。 では今、試してみよう。 完全に息を吐き、その後、三回から四回、ゆっくりやさしく壺領域へと息を吸い下ろす。 そして最後の呼気で、息の一部を壺領域に保つ。 これをおよそ十分間続ける。 どのように感じられただろうか。 少し不快だったかもしれない。 このように呼吸を導くのは難しい、と言う人もいる。 逆に、これによって、これまで感じたことのない落ち着きと中心感覚を得られた、と言う人もいる。 壺呼吸を、毎日一〇分あるいは二〇分実践すれば、私たちが日々の活動に従事している最中でも、自分の感情への気づきを培い、それに取り組む方法を学ぶ、直接的な手段となりうる。 lung がその本来の居場所に中心化すると、身体と感情と考えは次第に健全なバランスを取り戻す。 馬と騎手が非常にゆるやかで容易なかたちで協働し、どちらも主導権を握ろうとも、相手を狂わせようともしない。 その過程で、恐れ・痛み・不安・怒り・落ち着きのなさ等に関係する微細身体のパターンが徐々にゆるみ、心と感情のあいだにわずかなスペースが現れる。 究極の目標は、歩く・話す・食べる・飲む・運転するなど、日中のあらゆる活動の間じゅう、壺領域にそのわずかな息を保てるようになることである。 人によっては、わずかな期間の実践の後に、この能力が自動的に身につく。 別の人には、もう少し時間が必要かもしれない。 私は告白しなければならないが、何年も実践してきた今でも、ときどき本来の拠点とのつながりを失うことがある。 特に、とてもスピーディーな人たちに会うときにはそうだ。 私自身もややスピーディーなタイプで、他のスピーディーな人たちに会うことは、一種の微細身体の刺激として働く。 彼らの落ち着きのなさと居所を失ったエネルギーに巻き込まれ、その結果、いくらか落ち着きがなく、神経質で、ときに不安になる。 そこで私は“想起の呼吸”を一息入れる。 つまり、完全に息を吐き、壺領域へと息を吸い下ろし、そしてもう一度吐く際に、lung の息を少しだけ(わずか)本来の居場所に残すのだ。」

ジョン・タンはまたこう言った。 「エネルギー不均衡は、私たちが通常『物理的』と呼ぶものに非常に関係している。 霊性におけるエネルギーは、現代の慣用における『物理的』側面にあたる。 ただ言葉遣いが違うだけだ。 だから運動し、開放性と無努力の技法を学び、身体を開き、実際的で誠実であれ。 壺呼吸のような呼吸法はすべて良いが、規律・持続・忍耐が必要であって、三分钟热度(“三分だけ熱い”=三日坊主)ではいけない。 魔法やお伽話のような心構え抜きに、精進して実践すれば、必ず益をもたらす。」

「会話 — 2020年6月29日」 ジョン・タン:「フランクは非常に体験的だ。 今は空性や現象の不生に、あまり理論的に入り込む必要はない。 むしろ、彼がエネルギーと光明を身体へ——全身へ——動かせるようにしてやることだ。 背景は消えているとしても、六根が等しく光明だと思うかもしれないが、実時間では全くそうではなく、それがあらゆるエネルギー不均衡を引き起こす。 自然な状態へとくつろぎ、全身にわたるエネルギー的光明を感じなさい。 思考によってではない。 何でも触れ、つま先に触れ、脚に触れ、感じなさい。 それはあなたの心だ……(笑)……それが分かるかい? 山は心、草は心、すべてが心だ。 それは視覚と精神作用を通じてもそうだが、身体・つま先・指を感じ、触れなさい。 それらは心だ。 実時間でそれが分かるかい? 睡眠については、あまり心配しないこと。 いずれ起こる。 思考を減らし、全身を思考ではなく触覚の感覚として保ち、感じ、触れなさい。 『一切唯心・無我』の洞察が起こったからといって、すでに『一切唯心』に達したと考えてはならない。 もし万物を心として抱擁し感じることができないなら、心という共通項を捨て去って、無心——無我の自然な状態——へどうやって入るのか?」

ラベル:無我、エネルギー |

注記:うつ病や不安、トラウマに関わる深刻なエネルギー不均衡は、精神科医や心理士といった専門家の助けを得て、必要に応じて薬物療法の支援を受けて対処すべきである。 近代医学は癒しの重要な一部となりうるものであり、決して軽視してはならない。 もしこれらに関連する症状が見られるなら、専門家による診察を受けるべきである。

2019年にソウが7日間経験したエネルギー不均衡のケースでは、抑うつ気分や悲哀、精神的不安(身体的緊張の感覚を除く)はなかったため精神的問題に起因するものではなく、またトラウマにも関連しなかった。 むしろ、それは光明の極端な強度——昼夜を通じて持続する強度——と、過度のフォーカスと緊張というエネルギー・パターン(解けにくい)によるものだった。 それでも、もし自分で判断がつかないなら、検査を受けるほうがよい。 さらに、Judith Blackstone の書籍はトラウマ解放を深く扱い、非二元の実践と関連づけている(厳密には無我の実践に基づくわけではないが、読む価値はある)。 参照: https://www.awakeningtoreality.com/2024/06/good-book-on-healing-trauma-and-nondual.html

ジョン・タンはまた言った。「仕事や外見、家族の支えの欠如などに起因する抑うつと、例えば『I AM』に関わる問題とのあいだには大きな違いがある。 外見や仕事量、学業などに関わる不安は、それぞれの問題が解決されれば次第に解けていく。 しかし『I AM』のように、第一即時の思考として、あまりにも近く、あまりにも即時に現れる事柄は、取り除くのが容易ではない。」

「(エネルギー不均衡の)いくつかは、身体が準備できていない段階で特定のエネルギーの門が開くことに関連している場合もある。」

会話 — 2024年6月6日。 ジョン・タンは言った。「そうだ。 世俗的な達成が実践を妨げないようにしなさい。 そして、無我は単なる始まりにすぎない。 いったん現れを自己の光輝として認識したなら、心と法の双方を徹底して尽くし切らねばならない。 私はゾクチェンやマハームドラーの実践者ではないが、無我を完全に現証する自然の状態は、虹の身体のような結果にも非常に近いと理解し直観できる。」 ソウ・ウェイ・ユー:「なるほど……。」 ジョン・タン:「実のところ、心の実体化をある程度まで尽くし終えると、私たちは世俗的なことに執着しにくくなり、全身心を光の輝きへと尽くす方向に非常に強く引かれていく。 他の人については分からないが、私にはそう起こる。 あなたにも起こるだろうか。」 ソウ・ウェイ・ユー:「はい、そう思います。」 ジョン・タン:「この段階では、無努力・無為・非抵抗が極めて鍵となる。 心が反応したり焦点化したりするたびに、エネルギーは強まり、しばしばエネルギー不均衡へとつながるからだ。」


ラベル:無我、空、ジョン・タン、光明、マハ、ノンデュアル、自ずからの顕現(Spontaneous Presence) |
Soh

New Translation

(Molto di quanto segue è una raccolta di ciò che Thusness/PasserBy ha scritto da alcune fonti con modifiche minime.)

Come un fiume che sfocia nell'oceano, il sé si dissolve nel nulla. Quando un praticante diventa completamente chiaro sulla natura illusoria dell'individualità, la divisione soggetto-oggetto non ha luogo. Una persona che sperimenta l'"Essere-AM" troverà "Essere-AM in ogni cosa". Com'è?

Essendo liberati dall'individualità -- l'andare e venire, la vita e la morte, tutti i fenomeni semplicemente appaiono e scompaiono dallo sfondo dell'Essere-AM. L'Essere-AM non è sperimentato come un''entità' che risiede da qualche parte, né dentro né fuori; piuttosto è sperimentato come la realtà fondamentale perché tutti i fenomeni abbiano luogo. Anche nel momento del placarsi (morte), lo yogi è completamente autenticato con quella realtà; sperimentando il 'Reale' nel modo più chiaro possibile. Non possiamo perdere quell'Essere-AM; piuttosto tutte le cose possono solo dissolversi e riemergere da esso. L'Essere-AM non si è mosso, non c'è andare e venire. Questo "Essere-AM" è Dio.

I praticanti non dovrebbero mai confonderlo con la vera Mente di Buddha! "Essere-AM" è la consapevolezza primordiale (pristine awareness). Ecco perché è così travolgente. Solo che non c'è 'visione profonda' (insight) nella sua natura di vacuità. Niente rimane e niente a cui aggrapparsi. Ciò che è reale, è primordiale e fluisce, ciò che rimane è illusione. Lo sprofondare di nuovo in uno sfondo o Sorgente è dovuto all'essere accecati da forti propensioni karmiche di un 'Sé'. È uno strato di 'legame' che ci impedisce di 'vedere' qualcosa... è molto sottile, molto tenue, molto fine... passa quasi inosservato. Ciò che questo 'legame' fa è impedirci di 'vedere' cosa sia realmente il "TESTIMONE" e ci fa costantemente ricadere nel Testimone, nella Sorgente, nel Centro. Ogni momento in cui vogliamo sprofondare di nuovo nel Testimone, nel Centro, in questa Esistenza (Beingness), questa è un'illusione. È abituale e quasi ipnotico.

Ma cos'è esattamente questo "testimone" di cui stiamo parlando? È la manifestazione stessa! È l'apparenza stessa! Non c'è Sorgente in cui ricadere, l'Apparenza è la Sorgente! Compreso il momento per momento dei pensieri. Il problema è che scegliamo, ma tutto è realmente esso. Non c'è niente da scegliere.

Non c'è specchio che riflette

Da sempre la manifestazione sola è.

La mano singola applaude

Tutto È!

Tra "Essere-AM" e nessun "Specchio Riflettente", c'è un'altra fase distinta che chiamerei "Chiarezza Luminosa dello Specchio". Il Testimone Eterno è sperimentato come uno specchio cristallino senza forma che riflette l'esistenza di tutti i fenomeni. C'è una chiara conoscenza (knowledge) che il 'sé' non esiste ma l'ultima traccia della propensione karmica del 'sé' non è ancora completamente eliminata. Risiede a un livello molto sottile. In nessuno specchio riflettente, la propensione karmica del 'sé' è allentata in grande misura e la vera natura del Testimone è vista. Da sempre non c'è Testimone che testimonia alcunché, la manifestazione sola è. C'è solo Uno. La seconda mano non esiste...

Non c'è nessun testimone invisibile nascosto da nessuna parte. Ogni volta che tentiamo di ricadere in un'immagine trasparente invisibile, è di nuovo il gioco mentale del pensiero. È il 'legame' all'opera. (Vedi le Sei Fasi dell'Esperienza di Thusness)

Le visioni trascendentali sono fuorviate dalla facoltà cognitiva della nostra mente. Quel modo di cognizione è dualistico. Tutto è Mente ma questa mente non deve essere presa come 'Sé'. "Io Sono", Testimone Eterno, sono tutti prodotti della nostra cognizione ed è la causa principale che impedisce la vera visione.

Quando la coscienza sperimenta il puro senso di "IO SONO", sopraffatta dal momento trascendentale senza pensieri dell'Esistenza (Beingness), la coscienza si aggrappa a quell'esperienza come la sua identità più pura. Facendo ciò, crea sottilmente un 'osservatore' e non riesce a vedere che il 'Puro Senso di Esistenza' non è altro che un aspetto della pura coscienza relativo al regno del pensiero. Questo a sua volta serve come condizione (pratyaya) karmica che impedisce l'esperienza della pura coscienza che sorge da altri oggetti sensoriali. Estendendolo agli altri sensi, c'è udire senza un uditore e vedere senza un vedente -- l'esperienza della Pura Coscienza-Suono è radicalmente diversa dalla Pura Coscienza-Vista. Sinceramente, se siamo in grado di rinunciare all''Io' e sostituirlo con "Natura di Vacuità", la Coscienza è sperimentata come non-locale. Non c'è uno stato che sia più puro dell'altro. Tutto è solo Un Sapore, la molteplicità della Presenza.

Il 'chi', 'dove' e 'quando', l''Io', 'qui' e 'ora' devono alla fine cedere il passo all'esperienza della trasparenza totale. Non ricadere in una sorgente, la semplice manifestazione è sufficiente. Questo diventerà così chiaro che la trasparenza totale è sperimentata. Quando la trasparenza totale è stabilizzata, il corpo trascendentale è sperimentato e il dharmakaya è visto ovunque. Questa è la beatitudine samadhi del Bodhisattva. Questa è la fruizione della pratica.

Sperimenta tutte le apparenze con totale vitalità, vividezza e chiarezza. Esse sono realmente la nostra Consapevolezza Primordiale (Pristine Awareness), ogni momento e ovunque in tutte le sue molteplicità e diversità. Quando cause e condizioni (pratyaya) sono, la manifestazione è, quando la manifestazione è, la Consapevolezza (Awareness, come jñāna) è. Tutto è l'unica realtà.

Guarda! La formazione della nuvola, la pioggia, il colore del cielo, il tuono, tutta questa interezza che sta avendo luogo, cos'è? È Consapevolezza Primordiale (Pristine Awareness). Non identificata con nulla, non legata al corpo, libera da definizione e sperimenta cos'è. È l'intero campo della nostra consapevolezza primordiale (pristine awareness) che ha luogo con la sua natura di vacuità.

Se ricadiamo nel 'Sé', siamo rinchiusi all'interno. Prima dobbiamo andare oltre i simboli e vedere dietro l'essenza (体 tǐ) che ha luogo. Padroneggia quest'arte finché il fattore del risveglio (awakening) non sorge e si stabilizza, il 'sé' si placa e la realtà fondamentale senza nucleo è compresa.

Molto spesso si comprende che l'esistenza (beingness) è nell'esperienza dell'"IO SONO", anche senza le parole e l'etichetta di "IO SONO", il 'puro senso di esistenza', la presenza ancora È. È uno stato di riposo nell'Esistenza (Beingness). Ma nel Buddismo, è anche possibile sperimentare ogni cosa, ogni momento il non-manifesto.

La chiave risiede anche in 'Tu' ma è "vedere" che non c'è invece nessun 'Tu'. È 'vedere' che non c'è mai stato alcun agente che agisce in mezzo al sorgere fenomenico. C'è solo un mero accadere dovuto alla natura di vacuità, mai un 'Io' che fa qualcosa. Quando l''Io' si placa, simboli, etichette e l'intero strato del regno concettuale se ne vanno con esso. Ciò che rimane senza un 'agente' è un mero accadere.

E vedere, udire, sentire, gustare e odorare e non solo, tutto appare come manifestazione puramente spontanea. Un'intera Presenza del molteplice.

Fino a un certo stadio dopo la visione profonda (insight) della non-dualità, c'è un ostacolo. In qualche modo il praticante non riesce realmente a "sfondare" la spontaneità della non-dualità. Questo perché la 'visione filosofica' (dṛṣṭi) latente e profonda non può sincronizzarsi con l'esperienza non-duale. Quindi, è necessaria la realizzazione/visione profonda (insight) della Visione Filosofica Senza Visione Filosofica della Vacuità. (maggiori informazioni sulla Vacuità più avanti)

Nel corso degli anni ho affinato il termine "naturalezza" in "sorgere spontaneamente a causa delle condizioni (pratyaya)". Quando la condizione (pratyaya) è, la Presenza È. Non limitata all'interno di un continuum spazio-temporale. Aiuta a dissolvere la centricità.

Poiché l'apparenza è tutto ciò che c'è e l'apparenza è realmente la sorgente, cosa dà origine alle diversità delle apparenze? La "dolcezza" dello zucchero non è il colore "blu" del cielo. Lo stesso vale per l'"Essere-AM"... tutti sono ugualmente puri, nessuno stato è più puro dell'altro, solo la condizione (pratyaya) differisce. Le condizioni (pratyaya) sono fattori che danno alle apparenze le loro 'forme'. Nel Buddismo, la consapevolezza primordiale (pristine awareness) e le condizioni (pratyaya) sono inseparabili.

Il 'legame' è notevolmente allentato dopo il "nessuno specchio riflettente". Dal battere le palpebre, alzare una mano... salti... fiori, cielo, cinguettio di uccelli, passi... ogni singolo momento... niente non è esso! C'è solo ESSO. Il momento istantaneo è intelligenza totale, vita totale, chiarezza totale. Ogni cosa Conosce, è esso. Non ci sono due, ce n'è uno. Sorridi :)

Durante il processo di transizione da 'Testimone' a 'nessun Testimone' alcuni sperimentano la manifestazione come intelligenza stessa, alcuni la sperimentano come immensa vitalità, alcuni la sperimentano come tremenda chiarezza e alcuni, tutte e 3 le qualità esplodono in un singolo momento. Anche allora il 'legame' è lungi dall'essere completamente eliminato, sappiamo quanto sottile possa essere ;) . Il principio di condizionalità potrebbe aiutare se si incontrano problemi in futuro (so come si sente una persona dopo l'esperienza della non-dualità, non amano la 'religione'... :) Semplicemente 4 frasi).

Quando c'è questo, quello è.

Con il sorgere di questo, quello sorge.

Quando questo non è, neanche quello è.

Con la cessazione di questo, quello cessa.

Non per gli scienziati, più cruciale per l'esperienza della totalità della nostra Consapevolezza Primordiale (Pristine Awareness).

Il 'chi' è andato, il 'dove' e il 'quando' non ci sono (Soh: dopo la svolta iniziale della visione profonda (insight) di anatta).

Trova delizie in -- questo è, quello è. :)

Sebbene ci sia non-dualità nell'Advaita Vedanta, e non-sé nel Buddismo, l'Advaita Vedanta riposa in uno "Sfondo Ultimo" (rendendolo dualistico) (Commenti di Soh nel 2022: In rare varianti dell'Advaita Vedanta come il Sentiero Diretto di Greg Goode o di Atmananda, anche il Testimone [soggetto/oggetto sottile] viene infine collassato e anche la nozione di Coscienza viene dissolta più tardi alla fine -- vedi https://www.amazon.com/After-Awareness-Path-Greg-Goode/dp/1626258090), mentre il Buddismo elimina completamente lo sfondo e riposa nella natura di vacuità dei fenomeni; sorgere e cessare è dove si trova la consapevolezza primordiale (pristine awareness). Nel Buddismo, non c'è eternalità, solo continuità senza tempo (senza tempo come vividezza nel momento presente ma cambiamento e continuazione come un modello d'onda). Non c'è cosa che cambia, solo cambiamento.

Pensieri, sentimenti e percezioni vanno e vengono; non sono 'me'; sono di natura transitoria. Non è chiaro che se sono consapevole (aware) di questi pensieri, sentimenti e percezioni passeggeri, allora ciò dimostra che una qualche entità è immutabile e incambiabile? Questa è una conclusione logica piuttosto che una verità esperienziale. La realtà senza forma sembra reale e incambiabile a causa delle propensioni (condizionamento) e del potere di richiamare un'esperienza precedente. (Vedi L'Incantesimo delle Propensioni Karmiche)

C'è anche un'altra esperienza, questa esperienza non scarta o disconosce i transienti -- forme, pensieri, sentimenti e percezioni. È l'esperienza che il pensiero pensa e il suono ode. Il pensiero conosce non perché ci sia un conoscitore separato ma perché è ciò che è conosciuto. Conosce perché è esso. Dà origine alla visione profonda (insight) che l'essere (isness) non esiste mai in uno stato indifferenziato ma come manifestazione transitoria; ogni momento di manifestazione è una realtà interamente nuova, completa in sé stessa.

Alla mente piace categorizzare ed è rapida nell'identificare. Quando pensiamo che la consapevolezza (awareness, come jñāna) sia permanente, non riusciamo a 'vedere' l'aspetto di impermanenza di essa. Quando la vediamo come senza forma, perdiamo la vividezza del tessuto e della consistenza della consapevolezza (awareness, come jñāna) come forme. Quando siamo attaccati all'oceano, cerchiamo un oceano senza onde, non sapendo che sia l'oceano che l'onda sono la stessa cosa. Le manifestazioni non sono polvere sullo specchio, la polvere è lo specchio. Da sempre non c'è polvere, diventa polvere quando ci identifichiamo con un particolare granello e il resto diventa polvere.

Il non manifestato è la manifestazione,

Il nulla di ogni cosa,

Completamente immobile eppure sempre fluente,

Questa è la natura sorgente spontanea della fonte.

Semplicemente Così-da-Sé.

Usa il così-da-sé per superare la concettualizzazione.

Dimora completamente nell'incredibile realtà del mondo fenomenico.

.........

Aggiornamento, 2022:

Sim Pern Chong, che ha attraversato visioni profonde (insights) simili, ha scritto:

"Solo la mia opinione...

Nel mio caso, la prima volta che ho sperimentato una presenza IO SONO definitiva, non c'era alcun pensiero. solo una presenza senza confini, onnipervadente. Infatti, non c'era pensare o cercare se questo fosse IO SONO o no. Non c'era attività concettuale. È stato interpretato come 'IO SONO' solo dopo quell'esperienza.

Per me, l'esperienza IO SONO è in realtà uno scorcio del modo in cui è la realtà.. ma viene rapidamente reinterpretata. L'attributo di 'assenza di confini' è sperimentato. ma altri 'attributi come 'nessun soggetto-oggetto', 'luminosità trasparente, vacuità non sono ancora compresi.

La mia interpretazione è che quando si sperimenta 'IO SONO', non avrai dubbi che sia l'esperienza."

............

-------------- Aggiornamento: 2022

Soh a qualcuno nella fase IO SONO: Nella mia AtR (comunità del risveglio alla realtà), circa 60 persone hanno realizzato anatta e la maggior parte ha attraversato le stesse fasi (da IO SONO a non duale ad anatta... e molti ora sono entrati nella duplice vacuità), e sei il benvenuto a unirti alla nostra comunità online se lo desideri: https://www.facebook.com/groups/AwakeningToReality (Aggiornamento: il gruppo Facebook è ora chiuso)

Per scopi pratici, se hai avuto il risveglio (awakening) IO SONO, e ti concentri sulla contemplazione e sulla pratica basata su questi articoli, sarai in grado di risvegliare la visione profonda (insight) di anatta entro un anno. Molte persone rimangono bloccate su IO SONO per decenni o vite intere, ma io sono progredito da IO SONO alla realizzazione di anatta entro un anno grazie alla guida di John Tan e concentrandomi sulle seguenti contemplazioni:

  1. I Quattro Aspetti di IO SONO , http://www.awakeningtoreality.com/2018/12/four-aspects-of-i-am.html
  2. Le Due Contemplazioni Nonduali , https://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/12/two-types-of-nondual-contemplation.html
  3. Le Due Stanze di Anatta , http://www.awakeningtoreality.com/2009/03/on-anatta-emptiness-and-spontaneous.html
  4. Bahiya Sutta , http://www.awakeningtoreality.com/2008/01/ajahn-amaro-on-non-duality-and.html e http://www.awakeningtoreality.com/2010/10/my-commentary-on-bahiya-sutta.html

è importante entrare nelle tessiture e nelle forme della consapevolezza (awareness, come jñāna), non solo dimorare sull'informe... poi, contemplando le due stanze di anatta, si sfonderà verso l'anatta nonduale.

https://www.awakeningtoreality.com/2018/12/thusnesss-vipassana.html

ecco un estratto da un altro buon articolo

“È estremamente difficile esprimere cosa sia 'Essenza (Isness)'. Essenza (Isness) è consapevolezza (awareness, come jñāna) come forme. È un puro senso di presenza che tuttavia comprende la 'concretezza trasparente' delle forme. C'è una sensazione cristallina di consapevolezza (awareness, come jñāna) che si manifesta come la molteplicità dell'esistenza fenomenica. Se siamo vaghi nello sperimentare questa 'concretezza trasparente' dell'Essenza (Isness), è sempre a causa di quel 'senso di sé' che crea il senso di divisione... ...devi sottolineare la parte 'forma' della consapevolezza (awareness, come jñāna). Sono le 'forme', sono le 'cose'.” - John Tan, 2007

Questi articoli possono anche aiutare:

il mio articolo Nessun nome è necessario per iniziare i verbi - http://www.awakeningtoreality.com/2022/07/no-nouns-are-necessary-to-initiate-verbs.html,

il mio articolo Il Vento Soffia, Soffiare è il Vento - http://www.awakeningtoreality.com/2018/08/the-wind-is-blowing.html,

Le Spiegazioni di Daniel sulla Vipassana - https://vimeo.com/250616410,

Un'Esplorazione Zen del Bahiya Sutta (Anatta e Bahiya Sutta come spiegati nel contesto del Buddismo Zen da un insegnante Zen che ha attraversato le fasi delle visioni profonde (insights)) http://www.awakeningtoreality.com/2011/10/a-zen-exploration-of-bahiya-sutta.html

Joel Agee: Le Apparenze sono Auto-Illuminanti http://www.awakeningtoreality.com/2013/09/joel-agee-appearances-are-self_1.html

Consigli da Kyle Dixon http://www.awakeningtoreality.com/2014/10/advise-from-kyle_10.html

Un Sole Che Non Tramonta Mai http://www.awakeningtoreality.com/2012/03/a-sun-that-never-sets.html

Altamente Raccomandato: (SoundCloud) Registrazioni Audio dei Post di Kyle Dixon/Krodha/Asunthatneverset su Dharmawheel - https://www.awakeningtoreality.com/2023/10/highly-recommended-soundcloud-audio.html (Ascolta su SoundCloud)

Primi Post sul Forum di Thusness - https://awakeningtoreality.blogspot.com/2013/09/early-forum-posts-by-thusness_17.html (come disse Thusness stesso, questi primi post sul forum sono adatti per guidare qualcuno da IO SONO a nonduale e anatta),

Parte 2 dei Primi Post sul Forum di Thusness - https://awakeningtoreality.blogspot.com/2013/12/part-2-of-early-forum-posts-by-thusness_3.html

Parte 3 dei Primi Post sul Forum di Thusness - https://awakeningtoreality.blogspot.com/2014/07/part-3-of-early-forum-posts-by-thusness_10.html

Prime Conversazioni Parte 4 - https://awakeningtoreality.blogspot.com/2014/08/early-conversations-part-4_13.html

Prime Conversazioni Parte 5 - https://awakeningtoreality.blogspot.com/2015/08/early-conversations-part-5.html

Prime Conversazioni Parte 6 - https://awakeningtoreality.blogspot.com/2015/08/early-conversations-part-6.html

Le Prime Conversazioni di Thusness (2004-2007) Parti da 1 a 6 in Un Documento PDF - https://www.awakeningtoreality.com/2023/10/thusnesss-early-conversations-2004-2007.html

Conversazioni (Forum) di Thusness tra il 2004 e il 2012 - https://www.awakeningtoreality.com/2019/01/thusnesss-conversation-between-2004-to.html

Una Raccolta degli Scritti di Simpo - https://www.awakeningtoreality.com/2018/09/a-compilation-of-simpos-writings.html

Una nuova versione ridotta (molto più breve e concisa) della guida AtR è ora disponibile qui: http://www.awakeningtoreality.com/2022/06/the-awakening-to-reality-practice-guide.html, questa può essere più utile per i nuovi arrivati (130+ pagine) poiché quella originale (oltre 1000 pagine) potrebbe essere troppo lunga da leggere per alcuni.

Consiglio vivamente di leggere quella Guida Pratica AtR gratuita. Come ha detto Yin Ling, "Penso che la guida AtR abbreviata sia molto buona. Dovrebbe condurre all'anatta se la si legge davvero. Concisa e diretta."

Aggiornamento: 9 Settembre 2023 - L'Audiolibro (Gratuito) della Guida Pratica Awakening to Reality è ora disponibile su SoundCloud! https://soundcloud.com/soh-wei-yu/sets/the-awakening-to-reality (Ascolta su SoundCloud)


2008:

(15:53) AEN: hmm sì joan tollifson ha detto: Questo essere aperto non è qualcosa da praticare metodicamente. Toni sottolinea che non ci vuole alcuno sforzo per sentire i suoni nella stanza; è tutto qui. Non c'è nessun "me" (e nessun problema) finché non interviene il pensiero e dice: "Lo sto facendo bene? È questa 'consapevolezza (awareness, come sati)? Sono risvegliato (enlightened)?"; Improvvisamente la spaziosità scompare? La mente è occupata da una storia e dalle emozioni che genera.

(15:53) Thusness: sì, la piena attenzione (mindfulness, sati) alla fine diventerà naturale e senza sforzo quando sorgerà la vera visione profonda (insight) e l'intero scopo della piena attenzione (mindfulness, sati) come pratica diventerà chiaro.

(15:53) AEN: capisco

(15:54) Thusness: sì.

(15:54) Thusness: Ciò accadrà solo quando la propensione dell''Io' è lì.

(15:55) Thusness: Quando la nostra natura di Vacuità è lì, quel tipo di pensiero non sorgerà.

(15:55) AEN: toni packer: ... La meditazione libera e senza sforzo, senza scopo, senza aspettative, è un'espressione del Puro Essere che non ha nessun posto dove andare, niente da ottenere.

Non c'è bisogno che la consapevolezza (awareness, come sati) si volga da nessuna parte. È qui! Tutto è qui nella consapevolezza (awareness, come sati)! Quando c'è un risveglio (waking up) dalla fantasia, non c'è nessuno che lo faccia. La consapevolezza (Awareness, come sati) e il suono di un aereo sono qui senza nessuno nel mezzo che cerchi di "farli" o di unirli. Sono qui insieme! L'unica cosa che tiene separate le cose (e le persone) è il circuito del "me" con il suo pensiero separativo. Quando quello è quieto, le divisioni non esistono.

(15:55) AEN: capisco capisco

(15:55) Thusness: ma accadrà anche dopo che la visione profonda (insight) sarà sorta, prima della stabilizzazione.

(15:55) AEN: capisco

(15:56) Thusness: Non c'è Consapevolezza (Awareness, come jñāna) e Suono.

(15:56) Thusness: La Consapevolezza (Awareness, come jñāna) è quel Suono. È perché abbiamo una certa definizione di Consapevolezza (Awareness, come jñāna) che la mente non può sincronizzare Consapevolezza (Awareness, come jñāna) e Suono insieme.

(15:56) AEN: capisco capisco..

(15:57) Thusness: Quando questa visione filosofica (dṛṣṭi) inerente scompare, diventa molto chiaro che l'Apparenza è Consapevolezza (Awareness, come jñāna), tutto è nudo esposto e sperimentato senza riserve e senza sforzo.

(15:57) AEN: capisco..

(15:58) Thusness: una persona colpisce una campana, nessun suono viene prodotto. Mere condizioni (pratyaya). 😛

(15:58) Thusness: Tong, quella è consapevolezza (awareness, come jñāna).

(15:58) AEN: capisco..

(15:59) AEN: cosa intendi con nessun suono viene prodotto

(15:59) Thusness: vai a sperimentare e pensa lah

(15:59) Thusness: inutile spiegare.

(15:59) AEN: nessuna località giusto, non è prodotto da qualcosa

(16:00) Thusness: no

(16:00) Thusness: colpire, campana, persona, orecchie, qualsiasi cosa siano riassunte come 'condizioni' (pratyaya)

(16:00) Thusness: necessarie perché il 'suono' sorga.

(16:00) AEN: capisco..

(16:01) AEN: oh il suono non esiste esternamente

(16:01) AEN: ma solo un sorgere di condizione (pratyaya)

(16:01) Thusness: né internamente esistente

(16:01) AEN: capisco

(16:02) Thusness: allora la mente pensa, 'Io' sento.

(16:02) Thusness: o la mente pensa che io sia un'anima indipendente.

(16:02) Thusness: Senza di me non c'è 'suono'

(16:02) Thusness: ma io non sono il 'suono'

(16:02) Thusness: e la realtà fondamentale, la base perché tutte le cose sorgano.

(16:03) Thusness: questo è vero solo a metà.

(16:03) Thusness: una realizzazione più profonda è che non c'è separazione. Trattiamo il 'suono' come esterno.

(16:03) Thusness: non vedendolo come 'condizioni' (pratyaya)

(16:03) Thusness: non c'è suono là fuori o qui dentro.

(16:04) Thusness: è il nostro modo di vedere/analizzare/comprendere la dicotomia soggetto/oggetto che lo rende così.

(16:04) Thusness: avrai presto un'esperienza. 😛

(16:04) AEN: capisco

(16:04) AEN: cosa intendi

(16:04) Thusness: vai a meditare.


Aggiornamento, 2022, di Soh:

Quando le persone leggono "nessun testimone" potrebbero erroneamente pensare che questa sia una negazione del testimone/testimoniare o dell'esistenza. Hanno frainteso e dovrebbero leggere questo articolo:

Nessuna Consapevolezza (Awareness) Non Significa Inesistenza della Consapevolezza (Awareness)

Estratti parziali:

John Tan Sabato, 20 Settembre 2014 alle 10:10 UTC+08

Quando ti presenti a 不思 (fēi sī liàng, non-pensiero), non devi negare 觉 (consapevolezza, awareness come jñāna). Ma sottolinea come 覺 (consapevolezza, awareness come jñāna) si manifesti senza sforzo e meravigliosamente senza il minimo senso di riferimento e punto di centricità e dualità e sussunzione ...che sia qui, ora, dentro, fuori... questo può venire solo dalla realizzazione di anatta, Originazione Dipendente e vacuità così che la spontaneità di 相 (xiang, apparenza) sia realizzata nella propria chiarezza radiosa.

2007:

(16:20) Thusness: il buddismo sottolinea maggiormente l'esperienza diretta.

(16:20) Thusness: non c'è nessun sé separato dal sorgere e cessare

(16:20) AEN: capisco..

(16:20) Thusness: e dal sorgere e cessare si vede la natura di vacuità del 'Sé'

(16:21) Thusness: C'è il Testimoniare.

(16:21) Thusness: Il Testimoniare è la manifestazione.

(16:21) Thusness: non c'è nessun testimone che testimonia la manifestazione.

(16:21) Thusness: questo è il buddismo.

2007:

(23:42) Thusness: ho sempre detto che non è la negazione del testimone eterno.

(23:42) Thusness: ma cos'è esattamente quel testimone eterno?

(23:42) Thusness: è la vera comprensione del testimone eterno.

(23:43) AEN: sì, pensavo così

(23:43) AEN: quindi è qualcosa come david carse, giusto

(23:43) Thusness: senza il 'vedere' e il 'velo' dell'inerzia, del reagire alle propensioni.

(23:43) AEN: vacuità, eppure luminoso

(23:43) AEN: capisco

(23:43) Thusness: tuttavia quando si cita ciò che Buddha disse, lo si comprende prima di tutto.

(23:43) Thusness: sta vedendo il testimone eterno come nell'advaita?

(23:44) AEN: probabilmente è confuso

(23:44) Thusness: o sta vedendo libero dalle propensioni.

(23:44) AEN: non l'ha mai menzionato esplicitamente ma credo che la sua comprensione sia qualcosa del genere la

(23:44) Thusness: quindi non ha senso citare se non è visto.

(23:44) AEN: capisco

(23:44) Thusness: altrimenti si sta solo ripetendo la visione filosofica (dṛṣṭi) dell'atman.

(23:44) Thusness: quindi dovresti essere molto chiaro ormai... e non confonderti.

(23:44) AEN: capisco

(23:45) Thusness: cosa ti ho detto?

(23:45) Thusness: l'hai anche scritto nel tuo blog.

(23:45) Thusness: cos'è il testimone eterno?

(23:45) Thusness: è la manifestazione... momento per momento del sorgere

(23:45) Thusness: si vede con le propensioni e cos'è realmente?

(23:45) Thusness: questo è più importante.

(23:46) Thusness: ho detto così tante volte che l'esperienza è corretta ma la comprensione è sbagliata.

(23:46) Thusness: visione filosofica (dṛṣṭi) errata.

(23:46) Thusness: e come la percezione influenza l'esperienza e la comprensione errata.

(23:46) Thusness: quindi non citare qua e là con solo un'istantanea...

(23:47) Thusness: sii molto molto chiaro e conosci con saggezza così saprai qual è la visione filosofica (dṛṣṭi) giusta e sbagliata.

(23:47) Thusness: altrimenti leggerai questo e ti confonderai con quello.

2007:

(15:55) Thusness: non è negare l'esistenza della luminosità

(15:55) Thusness: della conoscibilità (knowingness)

(15:55) Thusness: ma piuttosto avere la visione filosofica (dṛṣṭi) corretta di cosa sia la coscienza.

(15:56) Thusness: come non-duale

(15:56) Thusness: ho detto che non c'è testimone separato dalla manifestazione, il testimone è realmente la manifestazione

(15:56) Thusness: questa è la prima parte

(15:56) Thusness: poiché il testimone è la manifestazione, com'è possibile?

(15:57) Thusness: come l'uno è realmente i molti?

(15:57) AEN: condizioni (pratyaya)?

(15:57) Thusness: dire che l'uno è i molti è già sbagliato.

(15:57) Thusness: questo è usare un modo di espressione convenzionale.

(15:57) Thusness: perché in realtà, non esiste una cosa come l''uno'

(15:57) Thusness: e i molti

(15:58) Thusness: c'è solo sorgere e cessare a causa della natura di vacuità

(15:58) Thusness: e il sorgere e cessare stesso è la chiarezza.

(15:58) Thusness: non c'è chiarezza separata dai fenomeni

(16:00) Thusness: se sperimentiamo il non-duale come ken wilber e parliamo dell'atman.

(16:00) Thusness: sebbene l'esperienza sia vera, la comprensione è sbagliata.

(16:00) Thusness: questo è simile a "IO SONO".

(16:00) Thusness: tranne che è una forma superiore di esperienza.

(16:00) Thusness: è non-duale.

Inizio Sessione: Domenica, 19 Ottobre 2008

(13:01) Thusness: Sì

(13:01) Thusness: In realtà la pratica non è negare questo 'Jue' (consapevolezza, awareness come jñāna)

(18:11) Thusness: il modo in cui hai spiegato è come se 'non ci fosse Consapevolezza (Awareness)'.

(18:11) Thusness: Le persone a volte fraintendono ciò che stai cercando di comunicare. Ma per comprendere correttamente questo 'jue' (consapevolezza, awareness come jñāna) in modo che possa essere sperimentato da tutti i momenti senza sforzo.

(13:01) Thusness: Ma quando un praticante sente che non è 'ESSO', inizia immediatamente a preoccuparsi perché è il suo stato più prezioso.

(13:01) Thusness: Tutte le fasi scritte riguardano questo 'Jue' o Consapevolezza (Awareness, come jñāna).

(13:01) Thusness: Tuttavia, ciò che la Consapevolezza (Awareness, come jñāna) è realmente non viene sperimentato correttamente.

(13:01) Thusness: Poiché non viene sperimentato correttamente, diciamo che 'la Consapevolezza (Awareness, come jñāna) che cerchi di mantenere' non esiste in quel modo.

(13:01) Thusness: Non significa che non ci sia Consapevolezza (Awareness, come jñāna).

2010:

(00:02) Thusness: non è che non ci sia consapevolezza (awareness, come jñāna)

(00:02) Thusness: è comprendere la consapevolezza (awareness, come jñāna) non da una visione filosofica (dṛṣṭi) soggetto/oggetto

(00:02) Thusness: non da una visione filosofica (dṛṣṭi) inerente

(00:03) Thusness: cioè dissolvere la comprensione soggetto/oggetto in eventi, azione, karma

(00:04) Thusness: allora gradualmente comprendiamo che la 'sensazione' di qualcuno lì è realmente solo una 'sensazione' di una visione filosofica (dṛṣṭi) inerente

(00:04) Thusness: significa una 'sensazione', un 'pensiero'

di

una

visione filosofica (dṛṣṭi) inerente

:P

(00:06) Thusness: come questo porti alla liberazione richiede l'esperienza diretta

(00:06) Thusness: quindi la liberazione non è libertà dal 'sé' ma libertà dalla 'visione filosofica (dṛṣṭi) inerente'

(00:07) AEN: capisco..

(00:07) Thusness: capito?

(00:07) Thusness: ma è importante sperimentare la luminosità

Inizio Sessione: Sabato, 27 Marzo 2010

(21:54) Thusness: Non male per l'auto-indagine

(21:55) AEN: capisco..

a proposito cosa pensi che lucky e chandrakirti stiano cercando di comunicare

(21:56) Thusness: quelle citazioni non erano tradotte molto bene secondo me.

(21:57) Thusness: ciò che deve essere compreso è che 'Nessun Io' non è negare la coscienza Testimoniante.

(21:58) Thusness: e 'Nessun Fenomeno' non è negare i Fenomeni

(21:59) Thusness: È solo allo scopo di 'de-costruire' i costrutti mentali.

(22:00) AEN: capisco..

(22:01) Thusness: quando senti un suono, non puoi negarlo... puoi?

(22:01) AEN: già

(22:01) Thusness: allora cosa stai negando?

(22:02) Thusness: quando sperimenti il Testimone come hai descritto nel tuo thread 'certezza dell'essere', come puoi negare questa realizzazione?

(22:03) Thusness: quindi cosa significano 'nessun Io' e 'nessun fenomeno'?

(22:03) AEN: come hai detto sono solo i costrutti mentali ad essere falsi... ma la coscienza non può essere negata?

(22:03) Thusness: no... non sto dicendo questo

Buddha non ha mai negato gli aggregati (五蕴)

(22:04) Thusness: solo l'identità personale

(22:04) Thusness: il problema è cosa si intende per 'non-inerente', natura vuota, dei fenomeni e dell''Io'

2010:

(23:15) Thusness: ma capirlo erroneamente è un'altra questione

puoi negare il Testimoniare?

(23:16) Thusness: puoi negare quella certezza dell'essere?

(23:16) AEN: no

(23:16) Thusness: allora non c'è niente di sbagliato in esso

come potresti negare la tua stessa esistenza?

(23:17) Thusness: come potresti negare l'esistenza del tutto

(23:17) Thusness: non c'è niente di sbagliato nello sperimentare direttamente senza intermediari il puro senso di esistenza

(23:18) Thusness: dopo questa esperienza diretta, dovresti affinare la tua comprensione, la tua visione filosofica (dṛṣṭi), le tue visioni profonde (insights)

(23:19) Thusness: non dopo l'esperienza, deviare dalla visione filosofica (dṛṣṭi) corretta, rafforzare la tua visione filosofica (dṛṣṭi) errata

(23:19) Thusness: non neghi il testimone, affini la tua visione profonda (insight) di esso

cosa si intende per non-duale

(23:19) Thusness: cosa si intende per non-concettuale

cosa significa essere spontaneo

qual è l'aspetto di 'impersonalità'

(23:20) Thusness: cos'è la luminosità.

(23:20) Thusness: non sperimenti mai nulla di immutabile

(23:21) Thusness: in una fase successiva, quando sperimenti il non-duale, c'è ancora questa tendenza a concentrarsi su uno sfondo... e questo impedirà il tuo progresso nella visione profonda (insight) diretta nel TATA come descritto nell'articolo tata.

(23:22) Thusness: e ci sono ancora diversi gradi di intensità anche se hai realizzato a quel livello.

(23:23) AEN: non duale?

(23:23) Thusness: tada (un articolo) è più che non-duale... è la fase 5-7

(23:24) AEN: capisco..

(23:24) Thusness: riguarda tutto l'integrazione della visione profonda (insight) di anatta e della vacuità

(23:25) Thusness: la vividezza nella transitorietà, sentire ciò che ho chiamato 'la tessitura e la trama' della Consapevolezza (Awareness, come jñāna) come forme è molto importante

poi viene la vacuità

(23:26) Thusness: l'integrazione di luminosità e vacuità

(22:45) Thusness: non negare quel Testimoniare ma affina la visione filosofica (dṛṣṭi), questo è molto importante

(22:46) Thusness: finora, hai correttamente sottolineato l'importanza del testimoniare

(22:46) Thusness: a differenza del passato, davi alle persone l'impressione di negare questa presenza testimoniante

(22:46) Thusness: hai semplicemente negato la personificazione, la reificazione e l'oggettivazione

(22:47) Thusness: così puoi progredire ulteriormente e realizzare la nostra natura vuota.

ma non pubblicare sempre quello che ti dico su msn

(22:48) Thusness: in men che non si dica, diventerò una specie di leader di una setta

(22:48) AEN: capisco.. lol

(22:49) Thusness: anatta non è una visione profonda (insight) ordinaria. Quando potremo raggiungere il livello di completa trasparenza, realizzerai i benefici

(22:50) Thusness: non-concettualità, chiarezza, luminosità, trasparenza, apertura, spaziosità, assenza di pensiero, non-località... tutte queste descrizioni diventano piuttosto prive di significato.

2009:

(19:39) Thusness: è sempre testimoniare... non fraintendere

solo se si comprende o meno la sua natura di vacuità.

(19:39) Thusness: c'è sempre luminosità

da quando non c'è testimoniare?

(19:39) Thusness: è solo luminosità e natura di vacuità

non solo luminosità

(21:59) Thusness: c'è sempre questo testimoniare... è il senso diviso di cui ti devi liberare

(21:59) Thusness: ecco perché non nego mai l'esperienza e la realizzazione del testimone, solo la giusta comprensione

2008:

(14:58) Thusness: Non c'è problema ad essere il testimone, il problema è solo una comprensione errata di cosa sia il testimone.

(14:58) Thusness: Cioè vedere la dualità nel Testimoniare.

(14:58) Thusness: O vedere 'Sé' e altro, divisione soggetto-oggetto. Questo è il problema.

(14:59) Thusness: Puoi chiamarlo Testimoniare o Consapevolezza (Awareness, come jñāna), non ci deve essere alcun senso di sé.

(23:21) Thusness: sì testimoniare

non testimone

(23:22) Thusness: nel testimoniare, è sempre non-duale

(23:22) Thusness: quando nel testimone, è sempre un testimone e un oggetto che viene testimoniato

quando c'è un osservatore, non esiste una cosa come nessun osservato

(23:23) Thusness: quando realizzi che c'è solo testimoniare, non c'è osservatore e osservato

è sempre non-duale

(23:24) Thusness: ecco perché quando genpo qualcosa ha detto che non c'è testimone solo testimoniare, eppure ha insegnato a restare indietro e osservare

(23:24) Thusness: ho commentato che il sentiero devia dalla visione filosofica (dṛṣṭi)

(23:25) AEN: capisco..

(23:25) Thusness: quando insegni a sperimentare il testimone, insegni quello

non si tratta di nessuna scissione soggetto-oggetto

stai insegnando a sperimentare quel testimone

(23:26) Thusness: primo stadio della visione profonda (insight) dell'"IO SONO"

2008:

(14:52) Thusness: stai negando l'esperienza dell'"Essere-AM"?

(14:54) AEN: intendi nel post?

(14:54) AEN: no

(14:54) AEN: è più come la natura dell''io sono' giusto

(14:54) Thusness: cosa viene negato?

(14:54) AEN: la comprensione dualistica?

(14:55) Thusness: sì, è la comprensione errata di quell'esperienza. Proprio come la 'rossezza' di un fiore.

(14:55) AEN: capisco..

(14:55) Thusness: Vivida e sembra reale e appartiene al fiore. Appare solo così, non è così.

(14:57) Thusness: Quando vediamo in termini di dicotomia soggetto/oggetto, appare sconcertante che ci siano pensieri, nessun pensatore. C'è suono, nessun uditore e c'è rinascita, ma nessuna anima permanente che rinasce.

(14:58) Thusness: È sconcertante a causa della nostra visione filosofica (dṛṣṭi) profondamente radicata di vedere le cose in modo inerente, dove il dualismo è un sottoinsieme di questo vedere 'inerente'.

(14:59) Thusness: Allora qual è il problema?

(14:59) AEN: capisco..

(14:59) AEN: le visioni filosofiche (dṛṣṭi) profondamente radicate?

(14:59) Thusness: sì

(14:59) Thusness: qual è il problema?

(15:01) AEN: tornato

(15:02) Thusness: Il problema è che la causa principale della sofferenza risiede in questa visione filosofica (dṛṣṭi) profondamente radicata. Cerchiamo e siamo attaccati a causa di queste visioni filosofiche (dṛṣṭi). Questa è la relazione tra 'visione filosofica' (dṛṣṭi) e 'coscienza'. Non c'è scampo. Con la visione filosofica (dṛṣṭi) inerente, c'è sempre 'Io' e 'Mio'. C'è sempre 'appartiene' come la 'rossezza' appartiene al fiore.

(15:02) Thusness: Pertanto, nonostante tutte le esperienze trascendentali, non c'è liberazione senza una giusta comprensione.

Soh: Inoltre, la comunità Awakening to Reality raccomanda di praticare l'auto-indagine per realizzare prima l'IO SONO, prima di procedere verso il nonduale, l'anatta e la vacuità. Quindi questo post non riguarda il negare l'IO SONO ma l'evidenziare la necessità di scoprire ulteriormente la natura nonduale, anatta, vuota della Presenza.

La realizzazione di anatta è cruciale per portare quel sapore di Presenza non-duale in tutte le manifestazioni, situazioni e condizioni (pratyaya) senza alcuna traccia di artificiosità, sforzo, referenzialità, centro o confini... è il sogno che si avvera di chiunque abbia realizzato il Sé/IO SONO/Dio, è la chiave che lo porta alla piena maturità ogni momento della vita senza sforzo.

È ciò che porta la pellucidità e la brillantezza oltre misura della Pura Presenza in ogni cosa, non è uno stato inerte o opaco di esperienza non-duale.

È ciò che permette questa esperienza:

"Cos'è la presenza ora? Tutto... Assapora la saliva, annusa, pensa, cos'è? Uno schiocco di dita, canta. Tutta l'attività ordinaria, zero sforzo quindi niente di raggiunto. Eppure è pieno compimento. In termini esoterici, mangia Dio, assapora Dio, vedi Dio, ascolta Dio...lol. Questa è la prima cosa che ho detto al Sig. J alcuni anni fa quando mi ha mandato un messaggio per la prima volta 😂 Se c'è uno specchio, questo non è possibile. Se la chiarezza non è vuota, questo non è possibile. Non è necessario nemmeno il minimo sforzo. Lo senti? Afferrare le mie gambe come se stessi afferrando la presenza! Hai già questa esperienza? Quando non c'è specchio, allora l'intera esistenza è solo luci-suoni-sensazioni come singola presenza. La Presenza sta afferrando la presenza. Il movimento per afferrare le gambe è Presenza.. la sensazione di afferrare le gambe è Presenza.. Per me anche digitare o sbattere le palpebre. Per paura che venga frainteso, non parlarne. La giusta comprensione non è presenza, perché ogni singolo senso di conoscibilità (knowingness) è diverso. Altrimenti il Sig. J dirà sciocchezze... lol. Quando c'è uno specchio, questo non è possibile. Penso di aver scritto a longchen (Sim Pern Chong) circa 10 anni fa.” - John Tan

“È una tale benedizione dopo 15 anni di "Io Sono" arrivare a questo punto. Attenzione che le tendenze abituali faranno del loro meglio per riprendersi ciò che hanno perso. Abituati a non fare nulla. Mangia Dio, assapora Dio, vedi Dio e tocca Dio.

Congratulazioni.” – John Tan a Sim Pern Chong dopo la sua svolta iniziale da IO SONO a non-sé nel 2006, http://awakeningtoreality.blogspot.com/2013/12/part-2-of-early-forum-posts-by-thusness_3.html

“Un commento interessante Sig. J. Dopo la realizzazione… Mangia semplicemente Dio, respira Dio, annusa Dio e vedi Dio… Infine sii completamente non stabilito e libera Dio.” - John Tan, 2012

"

"Lo scopo di anatta è avere un'esperienza completa del cuore -- illimitatamente, completamente, non-dualmente e non-localmente. Rileggi quello che ho scritto a Jax.

In ogni situazione, in tutte le condizioni (pratyaya), in tutti gli eventi. È eliminare l'artificiosità non necessaria in modo che la nostra essenza (体 tǐ) possa essere espressa senza oscuramento.

Jax vuole indicare il cuore ma non è in grado di esprimersi in modo non-duale... perché nella dualità, l'essenza (体 tǐ) non può essere realizzata. Tutte le interpretazioni dualistiche sono prodotte dalla mente. Conosci il sorriso di Mahākāśyapa? Riesci a toccare il cuore di quel sorriso anche 2500 anni dopo?

Si devono perdere tutta la mente e il corpo sentendo con tutta la mente e il corpo questa essenza (体 tǐ) che è 心 (Mente). Eppure anche 心 (Mente) è 不可得 (inconcepibile/inottenibile/inafferrabile).. Lo scopo non è negare 心 (Mente) ma piuttosto non porre alcuna limitazione o dualità in modo che 心 (Mente) possa manifestarsi pienamente.

Pertanto, senza comprendere 缘 (condizioni, pratyaya),si limita 心 (Mente). senza comprendere 缘 (condizioni, pratyaya),si pone una limitazione nelle sue manifestazioni. Devi sperimentare pienamente 心 (Mente) realizzando 无心 (Nessuna-Mente) e abbracciare pienamente la saggezza di 不可得 (inconcepibile/inottenibile/inafferrabile)." - John Tan/Thusness, 2014

"Una persona in totale sincerità si renderà conto che ogni volta che tenta di uscire dall'Essere (Isness) (sebbene non possa), c'è completa confusione. In verità, non può conoscere nulla nella realtà.

Se non abbiamo avuto abbastanza confusione e paura, l'Essere (Isness) non sarà pienamente apprezzato.

“Io non sono pensieri, io non sono sentimenti, io non sono forme, io non sono tutte queste cose, io sono il Testimone Eterno Ultimo.” è l'identificazione ultima.

I transienti che scartiamo sono la Presenza stessa che stiamo cercando; è una questione di vivere nell'Essere (Beingness) o vivere in costante identificazione. L'Essere (Beingness) fluisce e l'identificazione rimane. L'identificazione è qualsiasi tentativo di tornare all'Unità senza conoscere che la sua natura è già non-duale.

“IO SONO” non è conoscere. IO SONO è Essere. Essere pensieri, Essere sentimenti, Essere Forme… Non c'è un Io separato dall'inizio.

O non ci sei tu o tu sei tutto." - Thusness, 2007, Conversazioni di Thusness tra il 2004 e il 2012

...

Per coloro che praticano ancora l'auto-indagine per realizzare l'IO SONO, tenete presente questo:

John Tan scrisse su Dharma Overground nel 2009,

“Ciao Gary,

Sembra che ci siano due gruppi di praticanti in questo forum, uno che adotta l'approccio graduale e l'altro, il sentiero diretto. Sono abbastanza nuovo qui quindi potrei sbagliarmi.

La mia impressione è che tu stia adottando un approccio graduale e tuttavia tu stia sperimentando qualcosa di molto significativo nel sentiero diretto, cioè, l''Osservatore'. Come ha detto Kenneth, “Sei su qualcosa di molto grande qui, Gary. Questa pratica ti renderà libero.” Ma ciò che Kenneth ha detto richiederebbe che tu sia risvegliato (awaken) a questo 'Io'. Richiede che tu abbia quel tipo di realizzazione 'eureka!'. Risvegliato (Awaken) a questo 'Io', il sentiero della spiritualità diventa chiaro; è semplicemente lo spiegarsi di questo 'Io'.

D'altra parte, ciò che è descritto da Yabaxoule è un approccio graduale e quindi c'è una minimizzazione dell''IO SONO'. Devi valutare le tue condizioni (pratyaya), se scegli il sentiero diretto, non puoi minimizzare questo 'Io'; al contrario, devi sperimentare pienamente e completamente l'interezza di 'TU' come 'Esistenza'. La natura di Vacuità della nostra natura primordiale (pristine nature) interverrà per i praticanti del sentiero diretto quando si troveranno faccia a faccia con la natura 'senza tracce', 'senza centro' e 'senza sforzo' della consapevolezza (awareness, come jñāna) non-duale.

Forse qualche informazione su dove i due approcci si incontrano ti sarà d'aiuto.

Risvegliarsi (Awakening) all''Osservatore' allo stesso tempo 'aprirà' l''occhio dell'immediatezza'; cioè, è la capacità di penetrare immediatamente i pensieri discorsivi e sentire, percepire senza intermediari il percepito. È una sorta di conoscenza diretta. Devi essere profondamente consapevole (aware) di questo tipo di percezione "diretta senza intermediari" -- troppo diretta per avere un divario soggetto-oggetto, troppo breve per avere tempo, troppo semplice per avere pensieri. È l''occhio' che può vedere l'interezza del 'suono' essendo 'suono'. È lo stesso 'occhio' che è richiesto quando si fa vipassana, cioè, essendo 'nudo'. Che si tratti di non-duale o vipassana, entrambi richiedono l'apertura di questo 'occhio dell'immediatezza'.”

.........

Nella versione cinese della descrizione precedente dell'Essere-AM, John Tan scrisse nel 2007,

“真如:当一个修行者深刻地体验到“我/我相”的虚幻时,虚幻的“我相”就有如溪河溶入大海,消失于无形。此时也即是大我的生起。此大我清澈灵明,有如一面虚空的镜子觉照万物。一切的来去,生死,起落,一切万事万物,缘生缘灭,皆从大我的本体内幻现。本体并不受影响,寂然不动,无来亦无去。此大我即是梵我/神我。

注: 修行人不可错认这便是真正的佛心啊!由于执着于觉体与甚深的业力,修行人会难以入眠,严重时会得失眠症,而无法入眠多年。"1

Una volta che un praticante sperimenta profondamente l'illusorietà del “sé/immagine del sé”, l'“immagine del sé” illusoria si dissolve come un fiume si fonde nel grande oceano, dissolvendosi senza traccia. Questo momento è anche il sorgere del Grande Sé. Questo Grande Sé è puro, misticamente vivo, chiaro e luminoso, proprio come uno specchio-spazio vuoto che riflette le diecimila cose. L'andare e venire, nascita e morte, ascesa e caduta, i diecimila eventi e i diecimila fenomeni semplicemente sorgono e cessano secondo le condizioni (pratyaya) come manifestazioni illusorie che appaiono dall'interno del substrato fondamentale del Grande Sé. Il substrato fondamentale non viene mai influenzato, è immobile e senza movimento, senza andare e senza venire. Questo Grande Sé è l'Atman-Brahman, il Dio-Sé.

Commento: I praticanti non dovrebbero confonderlo con la Vera Mente di Buddha! A causa della forza karmica dell'aggrapparsi a una sostanza di consapevolezza (awareness, come jñāna), un praticante può avere difficoltà ad addormentarsi, e nei casi più gravi può sperimentare insonnia, l'incapacità di addormentarsi per molti anni.”

........

John Tan, 2008:

La Transitorietà

Il sorgere e il cessare è chiamato la Transitorietà,

È auto-luminoso e auto-perfezionato (本自圆成) fin dall'inizio.

Tuttavia, a causa della propensione karmica che divide,

La mente separa la 'brillantezza' dal sempre sorgere e cessare.

Questa illusione karmica costruisce 'la brillantezza',

In un oggetto che è permanente e immutabile.

L''immutabile' che appare inimmaginabilmente reale,

Esiste solo nel pensiero sottile e nel ricordo.

In essenza (体 tǐ) la luminosità è essa stessa vuota,

È già non nata, incondizionata (无为 wu wei) e onnipervadente.

Pertanto non temere il sorgere e il cessare.


Non c'è questo che sia più questo di quello.

Sebbene il pensiero sorga e cessi vividamente,

Ogni sorgere e cessare rimane intero come può essere.

La natura di vacuità che si manifesta sempre presentemente

Non ha in alcun modo negato la propria luminosità.

Sebbene il non-duale sia visto con chiarezza,

L'impulso a rimanere può ancora accecare sottilmente.

Come un passante che passa, è andato completamente.

Muori completamente

E sii testimone di questa pura presenza, la sua non-località.

~ Thusness/Passerby

E quindi... la "Consapevolezza" (Awareness, come jñāna) non è più "speciale" o "ultima" della mente transitoria.

Etichette: Tutto è Mente, Anatta, Non Duale |


C'è anche un bell'articolo di Dan Berkow, ecco un estratto parziale dall'articolo:

https://www.awakeningtoreality.com/2009/04/this-is-it-interview-with-dan-berkow.html

Dan:

Dire che "l'osservatore non è" non significa dire che manca qualcosa di reale. Ciò che è cessato (poiché "Ora" è il caso) è la posizione concettuale su cui viene proiettato "un osservatore", insieme allo sforzo di mantenere quella posizione impiegando pensiero, memoria, aspettative e obiettivi.

Se "Qui" è "Adesso", nessun punto di vista può essere identificato come "me", nemmeno da momento a momento. Infatti, il tempo psicologico (che è costruito per confronto) è cessato. Pertanto, c'è solo "questo momento Presente indiviso", nemmeno la sensazione immaginata di muoversi da questo momento al momento successivo.

Poiché il punto concettuale di osservazione non è, ciò che viene osservato non può essere "inserito" in categorie concettuali precedentemente mantenute come il "me-centro" della percezione. La relatività di tutte queste categorie è "vista", e la Realtà che è indivisa, non scissa dal pensiero o dal concetto semplicemente è il caso.

Cosa è successo alla consapevolezza (awareness, come jñāna) precedentemente situata come "l'osservatore"? Ora, consapevolezza (awareness, come jñāna) e percezione sono indivise. Ad esempio, se si percepisce un albero, l'"osservatore" è "ogni foglia dell'albero". Non c'è osservatore/consapevolezza (awareness, come jñāna) separato dalle cose, né ci sono cose separate dalla consapevolezza (awareness, come jñāna). Ciò che sorge è: "questo è tutto". Tutte le pontificazioni, le indicazioni, i detti saggi, le implicazioni di "conoscenza speciale", le impavide ricerche della verità, le intuizioni paradossalmente intelligenti -- tutto questo si rivela inutile e fuori luogo. "Questo", esattamente com'è, è "Esso". Non c'è bisogno di aggiungere nulla a "Questo", infatti non c'è alcun "ulteriore" - né c'è alcuna "cosa" a cui aggrapparsi, o da eliminare.

Gloria: Dan, a questo punto, qualsiasi affermazione sembra superflua. Questo è un territorio a cui si fa riferimento solo con il silenzio e la vacuità, e anche questo è troppo. Anche dire "IO SONO" complica ulteriormente, aggiunge un altro strato di significato alla consapevolezza (awareness, come jñāna). Anche dire nessun-agente è un tipo di affermazione, non è vero? Quindi è semplicemente impossibile discuterne ulteriormente?

Dan:

Sollevi due punti qui, Glo, che sembrano degni di essere affrontati: non riferirsi a "IO SONO" e usare la terminologia "non-agente", o penso, forse la terminologia "non-osservatore" potrebbe essere più appropriata.

Non usare "IO SONO", e riferirsi invece a "pura consapevolezza (awareness, come jñāna)", è un modo per dire che la consapevolezza (awareness, come jñāna) non è focalizzata su un "Io" né si preoccupa di distinguere l'essere dal non-essere riguardo a sé stessa. Non si sta vedendo in alcun modo oggettivante, quindi non avrebbe concetti sugli stati in cui si trova -- "IO SONO" si adatta solo in opposizione a "qualcos'altro è", o "io non sono". Senza "qualcos'altro" e nessun "non-Io", non può esserci una consapevolezza (awareness, come jñāna) "IO SONO". "Pura consapevolezza (awareness, come jñāna)" può essere criticata in modo simile - esiste una consapevolezza (awareness, come jñāna) "impura", esiste qualcosa di diverso dalla consapevolezza (awareness, come jñāna)? Quindi i termini "pura consapevolezza (awareness, come jñāna), o semplicemente "consapevolezza (awareness, come jñāna)" sono usati semplicemente per interagire attraverso il dialogo, con il riconoscimento che le parole implicano sempre contrasti dualistici.

I concetti correlati che "l'osservatore non è", o "l'agente non è" sono modi per mettere in discussione presupposti che tendono a governare la percezione. Quando il presupposto è stato sufficientemente messo in discussione, l'affermazione non è più necessaria. Questo è il principio di "usare una spina per rimuovere una spina". Nessun negativo ha rilevanza quando nessun positivo è stato affermato. La "semplice consapevolezza (awareness, come sati)" non ha pensato a un osservatore o agente presente o non presente.

-------------- Secondo Aggiornamento del 2022

Confutazione della Visione Filosofica (dṛṣṭi) Sostanzialista della Coscienza Nonduale

Mi è giunta all'attenzione che questo video https://www.youtube.com/watch?v=vAZPWu084m4 "Sé Vedantico e Non-Sé Buddista | Swami Sarvapriyananda" sta circolando su internet e nei forum ed è molto popolare. Apprezzo i tentativi di Swami di fare paragoni ma non sono d'accordo sul fatto che l'analisi di Candrakirti lasci la coscienza non-duale come realtà ultima irriducibile, non decostruita. Fondamentalmente, in sintesi, Swami Sarvapriyananda suggerisce che l'analisi settupla decostruisce un Sé eterno separato, come il Testimone o l'Atman delle scuole dualiste Samkhya, ma lascia intatto il Brahman nonduale delle scuole nondualiste Advaita, e l'analogia che ha fornito è che coscienza e forme sono come oro e collana, sono nonduali e non un testimone separato. Questo substrato nonduale (la "doratura di ogni cosa" per così dire) che è la sostanza di ogni cosa esiste veramente.

A causa di questo video, mi sono reso conto che dovevo aggiornare il mio articolo del blog contenente una raccolta di citazioni di John Tan, mie e di alcuni altri: 3) La Natura di Buddha NON è "Io Sono" http://www.awakeningtoreality.com/2007/03/mistaken-reality-of-amness.html -- è importante per me aggiornarlo perché ho inviato questo articolo a persone online (insieme ad altri articoli a seconda delle condizioni (pratyaya), di solito invio anche 1) Le Sette Fasi del Risveglio (Enlightenment) di Thusness/PasserBy http://www.awakeningtoreality.com/2007/03/thusnesss-six-stages-of-experience.html e possibilmente 2) Su Anatta (Non-Sé), Vacuità, Maha e Ordinarità, e Perfezione Spontanea http://www.awakeningtoreality.com/2009/03/on-anatta-emptiness-and-spontaneous.html -- le risposte in generale sono molto positive e molte persone ne hanno tratto beneficio). Avrei dovuto aggiornarlo prima per chiarimenti.

Ho un enorme rispetto per l'Advaita Vedanta e altre scuole dell'Induismo, siano esse dualiste o nondualiste, così come per altre tradizioni mistiche basate su un Sé ultimo o Coscienza Nonduale che si trovano in varie e tutte le religioni. Ma l'enfasi buddista è sui tre sigilli del dharma (法印) di Impermanenza, Sofferenza, Non-Sé. E Vacuità e Originazione Dipendente. Pertanto dobbiamo sottolineare le distinzioni anche in termini di realizzazioni esperienziali, e come ha detto Archaya Mahayogi Shridhar Rana Rinpoche, "Devo ribadire che questa differenza in entrambi i sistemi è molto importante per comprendere appieno entrambi i sistemi correttamente e non intende sminuire nessuno dei due sistemi." - http://www.awakeningtoreality.com/search/label/Acharya%20Mahayogi%20Shridhar%20Rana%20Rinpoche .

Ecco i paragrafi aggiuntivi che ho inserito in http://www.awakeningtoreality.com/2007/03/mistaken-reality-of-amness.html :

Tra la realizzazione di IO SONO e Anatta, c'è una fase che John Tan, io e molti altri abbiamo attraversato. È la fase di Una Mente, dove il Brahman nonduale è visto essere come la sostanza o il substrato di tutte le forme, nonduale con tutte le forme ma avente tuttavia un'esistenza immutabile e indipendente, che si modula come qualsiasi cosa e ogni cosa. L'analogia è oro e collana, l'oro può essere trasformato in collane di tutte le forme, ma in realtà tutte le forme e sagome sono solo della sostanza dell'Oro. Tutto è, in ultima analisi, solo Brahman, appare solo essere vari oggetti quando la sua realtà fondamentale (pura singolarità della coscienza nonduale) viene erroneamente percepita come una molteplicità. In questa fase, la coscienza non è più vista come un Testimone dualistico separato dalle apparenze, poiché tutte le apparenze sono percepite come l'unica sostanza della pura coscienza nonduale che si modula come ogni cosa.

Tali visioni filosofiche (dṛṣṭi) di nondualismo sostanziale ("oro"/"brahman"/"pura coscienza nonduale che è immutabile") vengono anch'esse viste attraverso nella realizzazione di Anatta. Come disse John Tan prima, "Il Sé è convenzionale. Non si possono mischiare i due. Altrimenti si parla di sola-mente.", e "bisogna separare [Soh: decostruire] sé/Sé dalla consapevolezza (awareness, come jñāna). Poi anche la consapevolezza (awareness, come jñāna) viene decostruita sia nella libertà da tutte le elaborazioni sia dalla natura propria (無自性 wú zìxìng)."

Per maggiori informazioni su questo argomento, vedere gli articoli da leggere assolutamente 7) Oltre la Consapevolezza (Awareness): riflessioni su identità e consapevolezza (awareness) http://www.awakeningtoreality.com/2018/11/beyond-awareness.html e 6) Differenziare IO SONO, Una Mente, Nessuna Mente e Anatta http://www.awakeningtoreality.com/2018/10/differentiating-i-am-one-mind-no-mind.html

Ecco un estratto dalla versione più lunga [non ridotta] della guida AtR:

Commento di Soh, 2021: “Alla fase 4 si può rimanere intrappolati nella visione filosofica (dṛṣṭi) che tutto sia un'unica consapevolezza (awareness, come jñāna) che si modula in varie forme, come l'oro che viene modellato in vari ornamenti pur non lasciando mai la sua pura sostanza d'oro. Questa è la visione filosofica (dṛṣṭi) del Brahman. Sebbene tale visione filosofica (dṛṣṭi) e visione profonda (insight) siano non-duali, si basano ancora su un paradigma di visione filosofica (dṛṣṭi) dell'essenza (体 tǐ) e di 'esistenza inerente'. Invece, si dovrebbe realizzare la vacuità della consapevolezza (awareness, come jñāna) [essendo semplicemente un nome proprio come 'tempo atmosferico' – vedi capitolo sull'analogia del tempo atmosferico], e si dovrebbe comprendere la coscienza in termini di originazione dipendente. Questa chiarezza di visione profonda (insight) eliminerà la visione filosofica (dṛṣṭi) dell'essenza (体 tǐ) secondo cui la coscienza è un'essenza (体 tǐ) intrinseca che si modula in questo e quello. Come il libro 'Ciò che il Buddha insegnò' di Walpola Rahula ha citato due grandi insegnamenti scritturali buddisti su questa materia:

Si deve ripetere qui che secondo la filosofia buddista non esiste uno spirito permanente e immutabile che possa essere considerato 'Sé', o 'Anima', o 'Ego', in opposizione alla materia, e che la coscienza (vinnana) non dovrebbe essere presa come 'spirito' in opposizione alla materia. Questo punto deve essere particolarmente enfatizzato, perché una nozione errata che la coscienza sia una sorta di Sé o Anima che continua come sostanza permanente attraverso la vita, è persistita fin dai tempi più antichi fino ai giorni nostri.

Uno dei discepoli del Buddha stesso, di nome Sati, sosteneva che il Maestro insegnasse: 'È la stessa coscienza che trasmigra e vaga qua e là.' Il Buddha gli chiese cosa intendesse per 'coscienza'. La risposta di Sati è classica: 'È ciò che esprime, che sente, che sperimenta i risultati delle buone e cattive azioni qui e là'.

'A chiunque, stupido', rimproverò il Maestro, 'hai sentito me esporre la dottrina in questo modo? Non ho forse spiegato in molti modi la coscienza come sorgente dalle condizioni (pratyaya): che non c'è sorgere della coscienza senza condizioni (pratyaya).' Poi il Buddha continuò a spiegare la coscienza in dettaglio: "La coscienza è nominata secondo qualsiasi condizione (pratyaya) attraverso la quale sorge: a causa dell'occhio e delle forme visibili sorge una coscienza, ed è chiamata coscienza visiva; a causa dell'orecchio e dei suoni sorge una coscienza, ed è chiamata coscienza uditiva; a causa2 del naso e degli odori sorge una coscienza, ed è chiamata coscienza olfattiva; a causa della lingua e dei sapori sorge una coscienza, ed è chiamata coscienza gustativa; a causa del corpo e degli oggetti tangibili sorge una coscienza, ed è chiamata coscienza tattile; a causa della mente e degli oggetti mentali (idee e pensieri) sorge una coscienza, ed è chiamata coscienza mentale.'

Poi il Buddha lo spiegò ulteriormente con un'illustrazione: Un fuoco è nominato secondo il materiale a causa del quale brucia. Un fuoco può bruciare a causa della legna, ed è chiamato fuoco di legna. Può bruciare a causa della paglia, e allora è chiamato fuoco di paglia. Così la coscienza è nominata secondo la condizione (pratyaya) attraverso la quale sorge.

Soffermandosi su questo punto, Buddhaghosa, il grande commentatore, spiega: '. . . un fuoco che brucia a causa della legna brucia solo quando c'è una fornitura, ma si spegne in quello stesso luogo quando essa (la fornitura) non c'è più, perché allora la condizione (pratyaya) è cambiata, ma (il fuoco) non attraversa schegge, ecc., e diventa un fuoco di schegge e così via; allo stesso modo la coscienza che sorge a causa dell'occhio e delle forme visibili sorge in quella porta dell'organo di senso (cioè, nell'occhio), solo quando c'è la condizione (pratyaya) dell'occhio, delle forme visibili, della luce e dell'attenzione (mindfulness, sati), ma cessa lì e allora quando essa (la condizione, pratyaya) non c'è più, perché allora la condizione (pratyaya) è cambiata, ma (la coscienza) non attraversa l'orecchio, ecc., e diventa coscienza uditiva e così via . . .'

Il Buddha dichiarò in termini inequivocabili che la coscienza dipende dalla materia, dalla sensazione, dalla percezione e dalle formazioni mentali,3 e che non può esistere indipendentemente da esse. Egli dice:

'La coscienza può esistere avendo la materia come suo mezzo (rupupayam) la materia come suo oggetto (rupdrammanam) la materia come suo supporto (rupapatittham) e cercando diletto può crescere, aumentare e svilupparsi; o la coscienza può esistere avendo la sensazione come suo mezzo ... o la percezione come suo mezzo ... o le formazioni mentali come suo mezzo, le formazioni mentali come suo oggetto, le formazioni mentali come suo supporto, e cercando diletto può crescere, aumentare e svilupparsi.

'Se un uomo dicesse: Mostrerò il venire, l'andare, lo svanire, il sorgere, la crescita, l'aumento o lo sviluppo della coscienza separatamente dalla materia, dalla sensazione, dalla percezione e dalle formazioni mentali, parlerebbe di qualcosa che non esiste.'“

Bodhidharma insegnò allo stesso modo: Vedendo con visione profonda (insight), la forma non è semplicemente forma, perché la forma dipende dalla mente. E la mente non è semplicemente mente, perché la mente dipende dalla forma. Mente e forma si creano e si negano a vicenda.4 … Mente e mondo sono opposti, le apparenze sorgono dove si incontrano. Quando la tua mente non si agita dentro, il mondo non sorge fuori. Quando il mondo e la mente sono entrambi trasparenti, questa è la vera visione profonda (insight).” (dal Discorso del Risveglio) Risveglio alla Realtà: Via del Bodhi http://www.awakeningtoreality.com/2018/04/way-of-bodhi.html

Soh scrisse nel 2012,

25 Febbraio 2012

Vedo Shikantaza (Il metodo di meditazione Zen del “Semplicemente Sedersi”) come l'espressione naturale della realizzazione e del risveglio (enlightenment).

Ma molte persone fraintendono completamente questo... pensano che pratica-risveglio (enlightenment) significhi che non c'è bisogno di realizzazione, poiché praticare è risveglio (enlightenment). In altre parole, anche un principiante è realizzato come il Buddha quando medita.

Questo è semplicemente sbagliato e pensieri dello stolto.

Piuttosto, comprendi che pratica-risveglio (enlightenment) è l'espressione naturale della realizzazione... e senza realizzazione, non si scoprirà l'essenza (体 tǐ) della pratica-risveglio (enlightenment).

Come ho detto al mio amico/insegnante 'Thusness', “Ero solito sedermi in meditazione con un obiettivo e una direzione. Ora, sedersi stesso è risveglio (enlightenment). Sedersi è solo sedersi. Sedersi è solo l'attività del sedersi, il ronzio dell'aria condizionata, respirare. Camminare stesso è risveglio (enlightenment). La pratica non è fatta per il risveglio (enlightenment) ma ogni attività è essa stessa la perfetta espressione del risveglio (enlightenment)/natura-di-buddha. Non c'è nessun posto dove andare."

Non vedo alcuna possibilità di sperimentare direttamente questo a meno che non si abbia una chiara visione profonda (insight) non-duale diretta. Senza realizzare la purezza primordiale e la perfezione spontanea (自然本自圆成) di questo momento istantaneo di manifestazione come natura-di-buddha stessa, ci sarà sempre sforzo e tentativo di 'fare', di raggiungere qualcosa... che si tratti di stati mondani di calma, assorbimento, o stati sovramondani di risveglio (awakening) o liberazione... tutto è solo dovuto all'ignoranza della vera natura di questo momento istantaneo.

Tuttavia, l'esperienza non-duale può ancora essere suddivisa in:

  1. Una Mente
  • ultimamente ho notato che la maggior parte degli insegnanti e maestri spirituali descrive il non-duale in termini di Una Mente. Cioè, avendo realizzato che non c'è divisione o dicotomia soggetto-oggetto/percipiente-percepito, sussumono tutto come Mente soltanto, montagne e fiumi sono tutti Io - l'unica essenza (体 tǐ) indivisa che appare come i molti. Sebbene non separata, la visione filosofica (dṛṣṭi) è ancora di un'essenza (体 tǐ) metafisica inerente. Quindi non-duale ma inerente.
  1. Nessuna Mente Dove anche la 'Unica Consapevolezza Nuda' o 'Una Mente' o una Sorgente è totalmente dimenticata e dissolta semplicemente in scenario, suono, pensieri che sorgono e profumo che passa. Solo il flusso della transitorietà auto-luminosa.

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Tuttavia, dobbiamo capire che anche avere l'esperienza di Nessuna Mente non è ancora la realizzazione di Anatta. Nel caso di Nessuna Mente, può rimanere un'esperienza di picco. Infatti, è una progressione naturale per un praticante a Una Mente entrare occasionalmente nel territorio di Nessuna Mente... ma poiché non c'è svolta in termini di visione filosofica (dṛṣṭi) tramite la realizzazione, la tendenza latente a sprofondare di nuovo in una Sorgente, una Una Mente è molto forte e l'esperienza di Nessuna Mente non sarà sostenuta stabilmente. Il praticante può quindi fare del suo meglio per rimanere nudo e non-concettuale e sostenere l'esperienza di Nessuna Mente essendo nudo nella consapevolezza (awareness, come jñāna), ma nessuna svolta può arrivare a meno che non sorga una certa realizzazione.

In particolare, la realizzazione importante per sfondare questa visione filosofica (dṛṣṭi) del sé inerente è la realizzazione che Sempre Già, mai c'è stato/è un sé - nel vedere sempre solo il visto, lo scenario, forme e colori, mai un vedente! Nell'udire solo i toni udibili, nessun uditore! Solo attività, nessun agente! Un processo di originazione dipendente stesso rotola e conosce... nessun sé, agente, percipiente, controllore in esso.

È questa realizzazione che demolisce la visione filosofica (dṛṣṭi) di 'vedente-vedere-visto', o 'Unica Consapevolezza Nuda' permanentemente realizzando che non c'è mai stata una 'Unica Consapevolezza' - 'consapevolezza (awareness, come jñāna)', 'vedere', 'udire' sono solo etichette per le sensazioni, le viste e i suoni sempre mutevoli, come la parola 'tempo atmosferico' non indica un'entità immutabile ma il flusso sempre mutevole di pioggia, vento, nuvole, che si formano e si separano momentaneamente...

Poi, man mano che l'indagine e le visioni profonde (insights) si approfondiscono, si vede e si sperimenta che c'è solo questo processo di originazione dipendente, tutte le cause e condizioni (pratyaya) che si uniscono in questo momento istantaneo di attività, cosicché quando si mangia la mela è come se l'universo mangiasse la mela, l'universo digitasse questo messaggio, l'universo udisse il suono... o l'universo fosse il suono. Semplicemente quello... è Shikantaza. Nel vedere solo il visto, nel sedersi solo il sedersi, e l'intero universo è seduto... e non potrebbe essere altrimenti quando non c'è sé, nessun meditatore separato dalla meditazione. Ogni momento non può 'fare a meno' di essere pratica-risveglio (enlightenment)... non è nemmeno il risultato della concentrazione o di qualsiasi forma di sforzo artificioso... piuttosto è l'autenticazione naturale della realizzazione, dell'esperienza e della visione filosofica (dṛṣṭi) in tempo reale.

Il Maestro Zen Dogen, il proponente della pratica-risveglio (enlightenment), è uno dei rari e chiari gioielli del Buddismo Zen che ha una chiarezza esperienziale molto profonda riguardo ad anatta e all'originazione dipendente. Senza una profonda realizzazione-esperienza di anatta e dell'originazione dipendente in tempo reale, non potremo mai capire a cosa Dogen stia indicando... le sue parole possono sembrare criptiche, mistiche o poetiche, ma in realtà stanno semplicemente indicando questo.

Qualcuno si è 'lamentato' che Shikantaza sia solo una soppressione temporanea delle contaminazioni invece della loro rimozione permanente. Tuttavia, se si realizza anatta, allora è la fine permanente della visione del sé (身見 shēnjiàn), cioè l'ingresso tradizionale nel flusso ( https://www.reddit.com/r/streamentry/comments/igored/insight_buddhism_a_reconsideration_of_the_meaning/?utm_source=share&utm_medium=ios_app&utm_name=iossmf%20 ).

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Più recentemente Soh ha anche scritto a qualcuno:

In realtà è molto semplice da capire. Conosci la parola 'tempo atmosferico'? Non è una cosa in sé, giusto? È solo un'etichetta per i modelli sempre mutevoli di nuvole che si formano e si dissolvono, vento che soffia, sole che splende, pioggia che cade, e così via, una miriade e un conglomerato di fattori sempre mutevoli che sorgono in modo dipendente e sono in mostra.

Ora, il modo corretto è realizzare che la 'Consapevolezza' (Awareness, come jñāna) non è altro che il tempo atmosferico, è solo una parola per il visto, l'udito, il sentito, tutto si rivela come Pura Presenza e sì, alla morte, la Presenza di chiara luce senza forma o, se ti sintonizzi su quell'aspetto, è solo un'altra manifestazione, un'altra porta dei sensi che non è più speciale. 'Consapevolezza' (Awareness, come jñāna), proprio come 'tempo atmosferico', è una designazione dipendente, è una mera designazione che non ha esistenza intrinseca propria.

Il modo sbagliato di vederla è come se il 'Tempo Atmosferico' fosse un contenitore esistente in sé e per sé, in cui la pioggia e il vento vanno e vengono ma il Tempo Atmosferico è una sorta di sfondo immutabile che si modula come pioggia e vento. Questa è pura illusione, non esiste una cosa del genere, un tale 'tempo atmosferico' è puramente un costrutto fabbricato mentalmente senza alcuna esistenza reale dopo un'indagine. Allo stesso modo, la 'Consapevolezza' (Awareness, come jñāna) non esiste come qualcosa di immutabile e persiste modulandosi da uno stato all'altro, non è come 'legna da ardere' che 'si trasforma in cenere'. La legna da ardere è legna da ardere, la cenere è cenere.

Dogen disse:

"Quando sei su una barca e guardi la riva, potresti supporre che la riva si stia muovendo. Ma quando tieni gli occhi fissi sulla barca, puoi vedere che la barca si muove. Allo stesso modo, se esamini miriadi di cose con un corpo e una mente confusi potresti supporre che la tua mente e la tua natura siano permanenti. Quando pratichi intimamente e ritorni dove sei, sarà chiaro che nulla ha un sé immutabile.

La legna da ardere diventa cenere, e non diventa di nuovo legna da ardere. Tuttavia, non supporre che la cenere sia futuro e la legna da ardere passato. Dovresti capire che la legna da ardere dimora nell'espressione fenomenica della legna da ardere, che include pienamente passato e futuro ed è indipendente da passato e futuro. La cenere dimora nell'espressione fenomenica della cenere, che include pienamente futuro e passato. Proprio come la legna da ardere non diventa di nuovo legna da ardere dopo essere diventata cenere, tu non ritorni alla nascita dopo la morte."

(Notare che Dogen e i Buddisti non rifiutano la rinascita, ma non postulano un'anima immutabile che subisce la rinascita, vedi Rinascita Senza Anima http://www.awakeningtoreality.com/2018/12/reincarnation-without-soul.html )

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Soh:

quando si realizza che consapevolezza (awareness, come jñāna) e manifestazione non sono una relazione tra una sostanza intrinsecamente esistente e la sua apparenza.. ma piuttosto sono come acqua e umidità ( http://www.awakeningtoreality.com/2018/06/wetness-and-water.html ), o come 'fulmine' e 'lampo' ( http://www.awakeningtoreality.com/2013/01/marshland-flowers_17.html ) -- non c'è mai stato un fulmine oltre al lampo né come agente del lampo, nessun agente o nome è richiesto per iniziare i verbi.. ma solo parole per lo stesso accadimento.. allora si entra nella visione profonda (insight) di anatta

coloro con una visione filosofica (dṛṣṭi) essenzialista pensano che qualcosa si stia trasformando in un'altra cosa, come se la coscienza universale si stesse trasformando in questo e quello e stesse cambiando.. la visione profonda (insight) di anatta vede attraverso la visione filosofica (dṛṣṭi) inerente e vede solo dharma che sorgono in modo dipendente, ogni istanza momentanea è disgiunta o scollegata sebbene interdipendente con tutti gli altri dharma. non è il caso di qualcosa che si trasforma in un altro.

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[15:44, 1/1/2021] Soh Wei Yu: Anurag Jain

Soh Wei Yu

Il Testimone collassa dopo che la gestalt dei sorgimenti è vista attraverso nel Sentiero Diretto. Gli oggetti, come hai già menzionato, dovrebbero essere stati completamente decostruiti prima. Con oggetti e sorgimenti decostruiti non c'è nulla di cui essere Testimone e collassa.

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[15:46, 1/1/2021] John Tan: Non è vero. Oggetto e sorgere possono anche collassare sussumendosi in una consapevolezza (awareness, come jñāna) onnicomprensiva.

[15:48, 1/1/2021] Soh Wei Yu: sì ma è come nonduale

[15:49, 1/1/2021] Soh Wei Yu: significa che dopo il collasso del Testimone e del sorgere, può essere nonduale

[15:49, 1/1/2021] Soh Wei Yu: ma ancora una mente

[15:49, 1/1/2021] Soh Wei Yu: giusto?

[15:49, 1/1/2021] Soh Wei Yu: ma poi Atmananda disse anche che alla fine anche la nozione di coscienza si dissolve

[15:49, 1/1/2021] Soh Wei Yu: penso che sia come una mente in nessuna mente ma non sono sicuro se parli di anatta

[15:50, 1/1/2021] John Tan: Sì.

[15:57, 1/1/2021] Soh Wei Yu: Anurag Jain

Soh Wei Yu

dov'è la nozione di "consapevolezza (awareness, come jñāna) onnicomprensiva". Sembra che la consapevolezza (awareness, come jñāna) sia reificata come un contenitore.

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· 5m

Anurag Jain

Soh Wei Yu

inoltre quando dici che la Coscienza si dissolve, devi prima rispondere come sia mai esistita in primo luogo? 🙂

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· 4m

[15:57, 1/1/2021] Soh Wei Yu: lol

[16:01, 1/1/2021] John Tan: Nel sussumere non c'è relazione contenitore-contenuto, c'è solo Consapevolezza (Awareness, come jñāna).

[16:03, 1/1/2021] Soh Wei Yu: Anurag Jain

Quindi Soh Wei Yu

come "rimane" la Consapevolezza (Awareness, come jñāna)? Dove e come?

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· 1m

[16:04, 1/1/2021] John Tan: Comunque questo non è per dibattiti inutili, se capisce veramente allora lascialo stare.

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"Sì. Soggetto e oggetto possono entrambi collassare nella pura visione ma è solo quando anche questa pura visione viene abbandonata/esaurita che la spontaneità naturale e l'assenza di sforzo possono iniziare a funzionare meravigliosamente. Ecco perché deve essere completa e tutta l'"enfasi". Ma penso che lui capisca, quindi non devi continuare a tormentarlo 🤣." - John Tan

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Mipham Rinpoche scrisse, estratti da Madhyamaka, Cittamātra, e la vera intenzione di Maitreya e Asaṅga self.Buddhism http://www.awakeningtoreality.com/2020/09/madhyamaka-cittamatra-and-true-intent.html :

...Perché, allora, i maestri Mādhyamika confutano il sistema di principi Cittamātra? Perché i sedicenti sostenitori dei principi Cittamātra, parlando di sola-mente, dicono che non ci sono oggetti esterni ma che la mente esiste sostanzialmente — come una corda che è priva di serpentinità, ma non priva di cordità. Non avendo compreso che tali affermazioni sono asserite dal punto di vista convenzionale, credono che la coscienza nonduale sia veramente esistente a livello ultimo. È questo principio che i Mādhyamika ripudiano. Ma, dicono, non confutiamo il pensiero di Ārya Asaṅga, che realizzò correttamente il sentiero della sola-mente insegnato dal Buddha...

...Quindi, se questa cosiddetta “coscienza nonduale auto-illuminante” asserita dai Cittamātrin è intesa come una coscienza che è l'ultima di tutte le coscienze dualistiche, ed è semplicemente che il suo soggetto e oggetto sono inesprimibili, e se tale coscienza è intesa come veramente esistente e non intrinsecamente vuota, allora è qualcosa che deve essere confutato. Se, d'altra parte, quella coscienza è intesa come non nata fin dall'inizio (cioè vuota), come direttamente sperimentata dalla consapevolezza (awareness, come jñāna) riflessiva, e come gnosi auto-illuminante senza soggetto o oggetto, è qualcosa da stabilire. Sia il Madhyamaka che il Mantrayāna devono accettare questo...

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Il conoscitore percepisce il conoscibile;

Senza il conoscibile non c'è cognizione;

Pertanto perché non ammetti

Che né oggetto né soggetto esistono [affatto]?

La mente non è che un semplice nome;

A parte il suo nome non esiste come nulla;

Quindi considera la coscienza come un semplice nome;

Anche il nome non ha natura intrinseca.

Sia all'interno che parimenti all'esterno,

O da qualche parte tra i due,

I conquistatori non hanno mai trovato la mente;

Quindi la mente ha la natura di un'illusione.

Le distinzioni di colori e forme,

O quella di oggetto e soggetto,

Di maschile, femminile e neutro -

La mente non ha tali forme fisse.

In breve i Buddha non hanno mai visto

Né mai vedranno [una tale mente];

Quindi come possono vederla come natura intrinseca

Ciò che è privo di natura intrinseca?

"Entità" è una concettualizzazione;

Assenza di concettualizzazione è vacuità;

Dove avviene la concettualizzazione,

Come può esserci vacuità?

La mente in termini di percepito e percipiente,

Questa i Tathagata non l'hanno mai vista;

Dove c'è il percepito e il percipiente,

Non c'è risveglio (enlightenment).

Priva di caratteristiche (lakṣaṇa) e originazione,

Priva di realtà sostanziale e trascendente la parola,

Spazio, mente del risveglio (awakening) e risveglio (enlightenment)

Possiedono le caratteristiche (lakṣaṇa) della non-dualità.

  • Nagarjuna

....

Inoltre, ultimamente ho notato che molte persone su Reddit, influenzate dall'insegnamento di Thanissaro Bhikkhu secondo cui anatta è semplicemente una strategia di disidentificazione, piuttosto che insegnare l'importanza di realizzare anatta come una visione profonda (insight) in un sigillo del dharma (法印) http://www.awakeningtoreality.com/2021/07/anatta-is-dharma-seal-or-truth-that-is.html , pensano che anatta sia semplicemente "non sé" in opposizione a nessun-sé e vacuità del sé. Tale comprensione è errata e fuorviante. Ho scritto su questo 11 anni fa nel mio articolo Anatta: Non-Sé o Nessun-Sé? http://www.awakeningtoreality.com/2011/10/anatta-not-self-or-no-self_1.html con molte citazioni scritturali a sostegno delle mie affermazioni.

Vedi anche, Greg Goode su Advaita/Madhyamika http://www.awakeningtoreality.com/2014/08/greg-goode-on-advaitamadhyamika_9.html

-------------- Aggiornamento: 15/9/2009

Il Buddha sulla 'Sorgente'

Thanissaro Bhikkhu disse in un commento a questo sutta Mulapariyaya Sutta: La Sequenza Radice - https://www.dhammatalks.org/suttas/MN/MN1.html:

Sebbene al giorno d'oggi raramente pensiamo negli stessi termini dei filosofi Samkhya, c'è stata a lungo — e c'è ancora — una tendenza comune a creare una metafisica "buddista" in cui si dice che l'esperienza della vacuità, dell'Incondizionato, del Corpo-del-Dharma, della Natura-di-Buddha, del rigpa, ecc., funzioni come il fondamento dell'essere da cui si dice che scaturisca l'"Tutto" — l'interezza della nostra esperienza sensoriale e mentale — e a cui ritorniamo quando meditiamo. Alcune persone pensano che queste teorie siano invenzioni di studiosi senza alcuna esperienza meditativa diretta, ma in realtà sono più spesso originate tra i meditatori, che etichettano (o nelle parole del discorso, "percepiscono") una particolare esperienza meditativa come l'obiettivo finale, si identificano con essa in modo sottile (come quando ci viene detto che "noi siamo il conoscere"), e quindi vedono quel livello di esperienza come il fondamento dell'essere da cui proviene ogni altra esperienza.

Qualsiasi insegnamento che segua queste linee sarebbe soggetto alla stessa critica che il Buddha rivolse ai monaci che ascoltarono per la prima volta questo discorso.

Rob Burbea disse riguardo a quel sutta in Realizzare la Natura della Mente:

Una volta il Buddha [parlò] a un gruppo di monaci e fondamentalmente disse loro di non vedere la Consapevolezza (Awareness, come jñāna) come La Sorgente di tutte le cose. Quindi questo senso di esserci una vasta consapevolezza (awareness, come jñāna) e tutto semplicemente appare da essa e scompare di nuovo in essa, per quanto bello sia, disse loro che in realtà non è un modo abile di vedere la realtà. E quello è un sutta molto interessante, perché è uno dei pochi sutta in cui alla fine non dice che i monaci gioirono delle sue parole.

Questo gruppo di monaci non voleva sentirlo. Erano abbastanza contenti di quel livello di visione profonda (insight), per quanto bello fosse, e diceva che i monaci non gioirono delle parole del Buddha. (risate) E allo stesso modo, ci si imbatte in questo come insegnante, devo dire. Questo livello è così attraente, ha così tanto il sapore di qualcosa di ultimo, che spesso le persone sono irremovibili lì.

-------------- Aggiornamento: 21/7/2008

La Consapevolezza (Awareness) è il Sé o il Centro?

Il primo stadio dello sperimentare la consapevolezza (awareness, come jñāna) faccia a faccia è come un punto su una sfera che hai chiamato centro. L'hai segnato.

Poi più tardi hai realizzato che quando hai segnato altri punti sulla superficie di una sfera, essi hanno le stesse caratteristiche (lakṣaṇa). Questa è l'esperienza iniziale del non-duale. (ma a causa della nostra inerzia dualistica, non c'è ancora chiarezza anche se c'è l'esperienza della non-dualità)

Ken Wilber: Mentre riposi in quello stato (del Testimone), e "senti" questo Testimone come una grande distesa, se poi guardi, diciamo, una montagna, potresti iniziare a notare che la sensazione del Testimone e la sensazione della montagna sono la stessa sensazione. Quando "senti" il tuo Sé puro e "senti" la montagna, sono assolutamente la stessa sensazione.

Quando ti viene chiesto di trovare un altro punto sulla superficie della sfera, non sarai sicuro ma sarai comunque molto attento.

Una volta che la visione profonda (insight) del Non-Sé è stabilizzata, punti semplicemente liberamente a qualsiasi punto sulla superficie della sfera -- tutti i punti sono un centro, quindi non c'è 'il' centro. 'Il' centro non esiste: tutti i punti sono un centro.

Quando dici 'il centro', stai segnando un punto e affermi che è l'unico punto che ha la caratteristica (lakṣaṇa) di un 'centro'. L'intensità dell'essere puro è essa stessa una manifestazione. È inutile dividere in interno ed esterno poiché arriverà anche un punto in cui un'alta intensità di chiarezza sarà sperimentata per tutte le sensazioni. Quindi non lasciare che l''intensità' crei la stratificazione di interno ed esterno.

Ora, quando non sappiamo cos'è una sfera, non sappiamo che tutti i punti sono uguali. Quindi, quando una persona sperimenta per la prima volta la non-dualità con le propensioni ancora in azione, non possiamo sperimentare pienamente la dissoluzione mente/corpo e l'esperienza non è chiara. Tuttavia, siamo ancora attenti alla nostra esperienza e cerchiamo di essere non-duali.

Ma quando la realizzazione è chiara e penetra profondamente nella nostra coscienza più intima, è realmente senza sforzo. Non perché sia una routine ma perché non c'è niente da fare, solo permettere all'espansione della coscienza di avvenire naturalmente.

-------------- Aggiornamento: 15/5/2008

Un'Elaborazione sulla Vacuità

Come un fiore rosso che è così vivido, chiaro e proprio di fronte a un osservatore, la “rossezza” sembra solo “appartenere” al fiore, in realtà non è così. La visione del rosso non sorge in tutte le specie animali (i cani non percepiscono i colori) né la “rossezza”1 è un attributo della mente. Se si avesse una “vista quantistica” per guardare nella struttura atomica, non si troverebbe similmente alcun attributo “rossezza” da nessuna parte, solo spazio/vuoto quasi completo senza forme percepibili. Qualunque apparenza sorge in modo dipendente, e quindi è vuota di qualsiasi esistenza inerente o attributi, forme, o “rossezza” fissi -- meramente luminosa eppure vuota, mere Apparenze senza esistenza inerente/oggettiva. Cosa dà origine alle differenze di colori ed esperienze in ognuno di noi? Sorgere dipendente... quindi vuoto di esistenza inerente. Questa è la natura di tutti i fenomeni.

Come hai visto, non c'è nessuna 'Fioreità' vista da un cane, un insetto o noi, o esseri di altri regni (che potrebbero realmente avere un modo di percezione completamente diverso). La 'Fioreità' è un'illusione (假 jiǎ) che non rimane nemmeno per un momento, semplicemente un aggregato di cause e condizioni (pratyaya). Analogamente all'esempio della 'fioreità', non c'è nessuna 'seità' che funga da sfondo testimoniante -- la consapevolezza primordiale (pristine awareness) non è lo sfondo testimoniante. Piuttosto, l'intera totalità del momento della manifestazione è la nostra consapevolezza primordiale (pristine awareness); lucidamente chiara, eppure vuota di esistenza inerente. Questo è il modo di 'vedere' l'uno come molti, l'osservatore e l'osservato sono uno e lo stesso. Questo è anche il significato dell'assenza di forma e dell'assenza di attributi della nostra natura.

Poiché la propensione karmica a percepire la dualità soggetto/oggetto è così forte, la consapevolezza primordiale (pristine awareness) viene rapidamente attribuita all''Io', Atman, il Soggetto ultimo, Testimone, sfondo, eterno, senza forma, inodore, incolore, senza pensiero e privo di qualsiasi attributo, e noi inconsapevolmente oggettiviamo questi attributi in un''entità' e ne facciamo uno sfondo eterno o un vuoto di vacuità. Essa 'dualifica' la forma dall'assenza di forma e tenta di separarsi da sé stessa. Questo non è 'Io', 'Io' sono l'immutabile e perfetta immobilità dietro le apparenze transitorie. Quando questo viene fatto, ci impedisce di sperimentare il colore, la tessitura, la trama e la natura manifesta della consapevolezza (awareness, come jñāna). Improvvisamente i pensieri vengono raggruppati in un'altra categoria e disconosciuti. Pertanto l''impersonalità' appare fredda e senza vita. Ma questo non è il caso per un praticante non-duale nel Buddismo. Per lui/lei, l''assenza di forma e l'assenza di attributi' è vividamente viva, piena di colori e suoni. L''Assenza di forma' non è compresa separatamente dalle 'Forme' – la 'forma dell'assenza di forma', la tessitura e la trama della consapevolezza (awareness, come jñāna). Sono uno e lo stesso. In realtà, i pensieri pensano e il suono ode. L'osservatore è sempre stato l'osservato. Nessun osservatore necessario, il processo stesso conosce e procede come scrive il Venerabile Buddhaghosa nel Visuddhi Magga.

Nella consapevolezza (awareness, come jñāna) nuda, non c'è scissione di attributi e oggettivazione di questi attributi in diversi gruppi della stessa esperienza. Quindi pensieri e percezioni sensoriali non vengono disconosciuti e la natura dell'impermanenza viene accolta con tutto il cuore nell'esperienza del non-sé. L''Impermanenza' non è mai ciò che sembra essere, mai ciò che viene compreso nei pensieri concettuali. L''Impermanenza' non è ciò che la mente ha concettualizzato che sia. Nell'esperienza non-duale, il vero volto della natura dell'impermanenza è sperimentato come accadere senza movimento, cambiamento senza andare da nessuna parte. Questo è il “ciò che è” dell'impermanenza. È semplicemente così.

Il Maestro Zen Dogen e il Maestro Zen Hui-Neng dissero: "L'Impermanenza è Natura-di-Buddha."

Per ulteriori letture sulla Vacuità, vedere Il Collegamento tra Non-Dualità e Vacuità e La non-solidità dell'esistenza


Aggiornamento, 2025 di Soh:

Il Maestro Zen Dogen non accetta un Brahman immutabile. Essendo un insegnante buddista, confuta un atman-brahman immutabile:

Come disse il mio mentore Thusness/John Tan nel 2007 riguardo al Maestro Zen Dogen, “Dogen è un grande maestro Zen che è penetrato profondamente in un livello molto profondo di anatman.”, “Leggi di Dogen… è veramente un grande maestro Zen… …[Dogen è] uno dei pochissimi Maestri Zen che conosce veramente.”, “Ogni volta che leggiamo gli insegnamenti più basilari del Buddha, sono i più profondi. Non dire mai che li comprendiamo. Specialmente quando si tratta di Originazione Dipendente, che è la verità (真 zhēn) più profonda nel Buddismo*. Non dire mai che la comprendiamo o l'abbiamo sperimentata. Anche dopo alcuni anni di esperienza nella non-dualità, non possiamo comprenderla. Il grande maestro Zen che più si è avvicinato ad essa è Dogen, che vede la temporalità come natura di buddha, che vede i transienti come verità (真 zhēn) vivente del dharma e la piena manifestazione della natura di buddha.”

"Quando sei su una barca e osservi la riva, potresti supporre che la riva si stia muovendo. Ma quando tieni gli occhi fissi sulla barca, puoi vedere che la barca si muove. Allo stesso modo, se esamini molte cose con una mente confusa, potresti supporre che la tua mente e la tua natura siano permanenti. Ma quando pratichi intimamente e ritorni dove sei, sarà chiaro che non c'è nulla che abbia un sé immutabile."

  • Dogen

“La mente come montagne, fiumi e la terra non è altro che montagne, fiumi e la terra. Non ci sono onde o spuma aggiuntive, né vento o fumo. La mente come il sole, la luna e le stelle non è altro che il sole, la luna e le stelle.”

  • Dogen

“Natura-di-Buddha

Per Dōgen, la natura-di-buddha o busshō (佛性) è tutta la realtà, "tutte le cose" (悉有).[41] Nello Shōbōgenzō, Dōgen scrive che "l'essere intero è la Natura-di-Buddha" e che anche gli oggetti inanimati (rocce, sabbia, acqua) sono un'espressione della Natura-di-Buddha. Egli respinse qualsiasi visione filosofica (dṛṣṭi) che vedesse la natura-di-buddha come un sé o fondamento interiore permanente e sostanziale. Dōgen descrive la natura-di-buddha come "vasta vacuità", "il mondo del divenire" e scrive che "l'impermanenza è in sé Natura-di-Buddha".[42] Secondo Dōgen:

Pertanto, la stessa impermanenza dell'erba e dell'albero, del boschetto e della foresta è la natura di Buddha. La stessa impermanenza degli uomini e delle cose, del corpo e della mente, è la natura di Buddha. Natura e terre, montagne e fiumi, sono impermanenti perché sono la natura di Buddha. Il risveglio (enlightenment) supremo e completo, poiché è impermanente, è la natura di Buddha.[43]

Takashi James Kodera scrive che la fonte principale della comprensione di Dōgen della natura-di-buddha è un passo del Sutra del Nirvana che era ampiamente inteso come l'affermazione che tutti gli esseri senzienti possiedono la natura-di-buddha.[41] Tuttavia, Dōgen interpretò il passo diversamente, rendendolo come segue:

Tutti sono (一 切) esseri senzienti, (衆生) tutte le cose sono (悉有) la Natura-di-Buddha (佛性); il Tathagata (如来) dimora costantemente (常住), è inesistente (無) eppure esistente (有), ed è cambiamento (變易).[41]

Kodera spiega che "mentre nella lettura convenzionale la Natura-di-Buddha è intesa come un'essenza (体 tǐ) permanente inerente a tutti gli esseri senzienti, Dōgen sostiene che tutte le cose sono la Natura-di-Buddha. Nella prima lettura, la Natura-di-Buddha è un potenziale immutabile, ma nella seconda, è l'attualità eternamente sorgente e perente di tutte le cose nel mondo."[41]

Quindi per Dōgen la natura-di-buddha include tutto, la totalità di "tutte le cose", inclusi gli oggetti inanimati come erba, alberi e terra (che sono anche "mente" per Dōgen).[41]

John Tan scrisse anni fa:

“Tu e Andre state parlando di concetti filosofici di permanenza e impermanenza. Dogen non sta parlando di quello. Ciò che Dogen intendeva con "l'impermanenza è natura di buddha" ci sta dicendo di autenticare la natura di buddha direttamente nei fenomeni stessi transitori -- le montagne, gli alberi, la luce del sole, il battere dei passi, non una qualche super consapevolezza (awareness, come jñāna) nel paese delle meraviglie.”

http://books.google.com.sg/books?id=H6A674nlkVEC&pg=PA21&lpg=PA21

Dal Bendowa, del Maestro Zen Dogen

Domanda Dieci:

Alcuni hanno detto: Non preoccuparti della nascita-e-morte. C'è un modo per liberarsi prontamente della nascita-e-morte. È afferrando la ragione dell'eterna immutabilità della 'natura-mentale'. Il succo è questo: sebbene una volta che il corpo è nato proceda inevitabilmente verso la morte, la natura-mentale non perisce mai. Una volta che puoi realizzare che la natura-mentale, che non trasmigra nella nascita-e-morte, esiste nel tuo stesso corpo, la rendi la tua natura fondamentale (本性). Quindi il corpo, essendo solo una forma temporanea, muore qui e rinasce là senza fine, eppure la mente è immutabile, incambiabile attraverso passato, presente e futuro. Conoscere questo significa essere liberi dalla nascita-e-morte. Realizzando questa verità (真 zhēn), poni fine definitivamente al ciclo trasmigratorio in cui ti sei mosso. Quando il tuo corpo muore, entri nell'oceano della natura originaria. Quando ritorni alla tua origine in questo oceano, diventi dotato della meravigliosa virtù dei Buddha-patriarchi. Ma anche se sei in grado di afferrare questo nella tua vita presente, poiché la tua esistenza fisica attuale incarna karma erroneo da vite precedenti, non sei uguale ai saggi.

"Coloro che non riescono ad afferrare questa verità (真 zhēn) sono destinati a girare per sempre nel ciclo della nascita-e-morte. Ciò che è necessario, quindi, è semplicemente conoscere senza indugio il significato dell'immutabilità della natura-mentale. Cosa puoi aspettarti di guadagnare sprecando tutta la tua vita in una seduta senza scopo?"

Cosa ne pensi di questa affermazione? È essenzialmente in accordo con la Via dei Buddha e dei patriarchi?

Risposta 10:

Hai appena esposto la visione filosofica (dṛṣṭi) dell'eresia Senika. Non è certamente il Dharma del Buddha.

Secondo questa eresia, c'è nel corpo un'intelligenza spirituale. Quando si presentano le occasioni, questa intelligenza discrimina prontamente simpatie e antipatie, pro e contro, sente dolore e irritazione, e sperimenta sofferenza e piacere - tutto ciò è dovuto a questa intelligenza spirituale. Ma quando il corpo perisce, questa intelligenza spirituale si separa dal corpo e rinasce in un altro luogo. Mentre sembra perire qui, ha vita altrove, e quindi è immutabile e imperitura. Tale è il punto di vista dell'eresia Senika.

Ma apprendere questa visione filosofica (dṛṣṭi) e cercare di spacciarla per il Dharma del Buddha è più sciocco che stringere un pezzo di tegola rotta supponendo che sia un gioiello d'oro. Niente potrebbe paragonarsi a una delusione così sciocca e deplorevole. Hui-chung della dinastia T'ang mise fortemente in guardia contro di essa. Non è insensato prendere questa falsa visione filosofica (dṛṣṭi) - che la mente dimora e la forma perisce - ed equipararla al meraviglioso Dharma dei Buddha; pensare, mentre si crea così la causa fondamentale della nascita-e-morte, di essere liberati dalla nascita-e-morte? Quanto deplorevole! Sappi solo che è una visione filosofica (dṛṣṭi) falsa, non buddista, e non prestarle orecchio.

Sono costretto dalla natura della questione, e ancor più da un senso di compassione, a cercare di liberarti da questa falsa visione filosofica (dṛṣṭi). Devi sapere che il Dharma del Buddha predica come cosa ovvia che corpo e mente sono uno e lo stesso, che l'essenza (体 tǐ) e la forma non sono due. Questo è compreso sia in India che in Cina, quindi non ci possono essere dubbi al riguardo. Devo aggiungere che la dottrina buddista dell'immutabilità insegna che tutte le cose sono immutabili, senza alcuna differenziazione tra corpo e mente. L'insegnamento buddista della mutabilità afferma che tutte le cose sono mutabili, senza alcuna differenziazione tra essenza (体 tǐ) e forma. In considerazione di ciò, come può qualcuno affermare che il corpo perisce e la mente dimora? Sarebbe contrario al vero Dharma.

Oltre a ciò, devi anche giungere a realizzare pienamente che nascita-e-morte è in sé e per sé nirvana. Il Buddismo non parla mai di nirvana separato da nascita-e-morte. Infatti, quando qualcuno pensa che la mente, separata dal corpo, sia immutabile, non solo la scambia per la saggezza di Buddha, che è libera da nascita-e-morte, ma la mente stessa che opera tale discriminazione non è immutabile, è di fatto anche allora che gira in nascita-e-morte. Una situazione senza speranza, non è vero?

Dovresti riflettere profondamente su questo: poiché il Dharma del Buddha ha sempre sostenuto l'unicità di corpo e mente, perché, se il corpo nasce e perisce, la mente da sola, separata dal corpo, non dovrebbe nascere e morire anch'essa? Se un tempo corpo e mente erano uno, e un altro tempo non uno, la predicazione del Buddha sarebbe vuota e non vera. Inoltre, pensando che nascita-e-morte sia qualcosa da cui dovremmo allontanarci, commetti l'errore di rifiutare il Dharma del Buddha stesso. Devi guardarti da tale pensiero.

Comprendi che ciò che i buddisti chiamano la dottrina buddista della natura-mentale, l'aspetto grande e universale che abbraccia tutti i fenomeni, abbraccia l'intero universo, senza differenziare tra essenza (体 tǐ) e forma, o preoccuparsi della nascita o della morte. Non c'è nulla - risveglio (enlightenment) e nirvana inclusi - che non sia la natura-mentale. Tutti i dharma, le "miriadi di forme dense e vicine" dell'universo - sono simili nell'essere questa Mente unica. Tutti sono inclusi senza eccezione. Tutti quei dharma, che servono come "porte" o ingressi alla Via, sono la stessa cosa di una Mente. Per un buddista predicare che non c'è disparità tra queste porte-dharma indica che comprende la natura-mentale.

In questo unico Dharma [una Mente], come potrebbe esserci una qualche differenziazione tra corpo e mente, una qualche separazione tra nascita-e-morte e nirvana? Siamo tutti originariamente figli del Buddha, non dovremmo ascoltare pazzi che sproloquiano visioni filosofiche (dṛṣṭi) non buddiste.


2022: Un'altra elaborazione sull'originazione dipendente e la vacuità -

Dov'è il fiore?

Yin Ling

·

Stavo contemplando l'originazione dipendente e la vacuità stamattina, a seguito di una conversazione con un amico ieri... la mia domanda è:

**

Quando vedi un fiore,

chiedi, il fiore è nella mia mente? il fiore è là fuori separato dalla mia mente? Il fiore è tra la mente e là fuori? dove? dov'è il fiore?🤨

Quando senti un suono, chiedi,

Il suono è nel mio orecchio? nella mia mente? nel mio cervello? nella radio? nell'aria? separato dalla mia mente? fluttua indipendentemente? DOVE?🤨

quando tocchi un tavolo, chiedi,

Questo tocco è nel mio dito? nel tavolo? nello spazio intermedio? nel mio cervello? nella mia mente? separato dalla mente? DOVE?🤨

Continua a cercare. Vedi, Senti, Percepisci. La mente ha bisogno di guardare per essere soddisfatta. Altrimenti continua ad essere ignorante.

*

Allora vedrai, Non c'è mai stato un SÉ, sé nel buddismo significa cosa indipendente - singolare, indipendente, una, COSA sostanziale che siede fuori o dentro o in qualsiasi posto in questo 'mondo'.

Perché il suono appaia, l'orecchio, la radio, l'aria, le onde, la mente, il conoscere, ecc ecc ecc devono riunirsi e c'è un suono. manca uno e non c'è suono.

-questa è l'originazione dipendente.

Ma allora dov'è? cosa è realmente questo che stai ascoltando? così vivido di un'orchestra! ma dove?! 🤨

-Quella è Vacuità.

**

È tutto semplicemente illusorio (假 jiǎ). Lì, eppure non lì. Appare eppure vuoto.

Cioè, la natura della realtà.

Non hai mai avuto bisogno di temere. Hai solo pensato erroneamente che fosse tutto reale.

Vedi anche:

Il Mio Sutra Preferito, Non-Sorgere e Originazione Dipendente del Suono

Non-Sorgere a causa dell'Originazione Dipendente

--

Noumeno e Fenomeno

Maestro Zen Sheng Yen:

Quando sei nella seconda fase, sebbene tu senta che l'"Io" non esiste, la sostanza fondamentale dell'universo, o la Verità (真 zhēn) Suprema, esiste ancora. Sebbene tu riconosca che tutti i diversi fenomeni sono l'estensione di questa sostanza fondamentale o Verità (真 zhēn) Suprema, tuttavia esiste ancora l'opposizione tra sostanza fondamentale e fenomeni esterni.

.

.

.

Chi è entrato nel Chan (Zen) non vede la sostanza fondamentale e i fenomeni come due cose in opposizione l'una all'altra. Non possono nemmeno essere illustrati come il dorso e il palmo di una mano. Questo perché i fenomeni stessi sono sostanza fondamentale, e separatamente dai fenomeni non si trova alcuna sostanza fondamentale. La realtà della sostanza fondamentale esiste proprio nell'irrealtà (假 jiǎ) dei fenomeni, che cambiano incessantemente e non hanno forma costante. Questa è la Verità (真 zhēn).

------------------ Aggiornamento: 2/9/2008

Estratto da sgForums di Thusness/Passerby:

AEN ha pubblicato un ottimo sito su ciò che sto cercando di comunicare. Guardate i video. Dividerò ciò che viene discusso nei video in metodo, visione filosofica (dṛṣṭi) ed esperienza per facilità di illustrazione come segue:

  1. Il metodo è ciò che è comunemente noto come auto-indagine.
  2. La visione filosofica (dṛṣṭi) che abbiamo attualmente è dualistica. Vediamo le cose in termini di divisione soggetto/oggetto.
  3. L'esperienza può essere ulteriormente suddivisa come segue:

3.1 Un forte senso individuale di identità

3.2 Un'esperienza oceanica libera dalla concettualizzazione.

Ciò è dovuto al fatto che il praticante si libera dalla concettualità, dalle etichette e dai simboli. La mente si dissocia continuamente da tutte le etichettature e simboli.

3.3 Un'esperienza oceanica che si dissolve in ogni cosa.

Il periodo di non-concettualità è prolungato. Abbastanza a lungo da dissolvere il legame 'simbolico' mente/corpo e quindi la divisione interno ed esterno è temporaneamente sospesa.

L'esperienza per 3.2 e 3.3 è trascendentale ed è preziosa. Tuttavia queste esperienze sono comunemente male interpretate e distorte oggettivandole in un'entità che è “ultima, immutabile e indipendente”. L'esperienza oggettivata è conosciuta come Atman, Dio o Natura di Buddha dall'oratore nei video. È conosciuta come l'esperienza di “IO SONO” con diversi gradi di intensità di non-concettualità. Di solito i praticanti che hanno sperimentato 3.2 e 3.3 trovano difficile accettare la dottrina di Anatta e della Vacuità. Le esperienze sono troppo chiare, reali e beate per essere scartate. Sono sopraffatti.

Prima di proseguire, perché pensi che queste esperienze siano distorte?

(suggerimento: La visione filosofica (dṛṣṭi) che abbiamo attualmente è dualistica. Vediamo le cose in termini di divisione soggetto/oggetto.)


Esistono diversi tipi di beatitudine/gioia/rapimento meditativo.

Come nella meditazione samatha, ogni stato jhana rappresenta uno stadio di beatitudine associato a un certo livello di concentrazione; la beatitudine sperimentata dalla visione profonda (insight) della nostra natura differisce.

La felicità e il piacere sperimentati da una mente dualistica sono diversi da quelli sperimentati da un praticante. L'"Essere-AM" è una forma superiore di felicità rispetto a una mente dualistica che chiacchiera continuamente. È un livello di beatitudine associato a uno stato di 'trascendenza' – uno stato di beatitudine risultante dall'esperienza di “assenza di forma, inodore, incolore, senza attributi e senza pensieri”.

Il non-sé o non-duale è una forma superiore di beatitudine risultante dall'esperienza diretta dell'Unità e della non-separazione. È correlato all'abbandono dell''Io'. Quando il non-duale è libero da percezioni, quella beatitudine è una forma di trascendenza-unità. È ciò che viene chiamata la trasparenza della non-dualità.

....

I seguenti scritti provengono da un altro utente del forum (Soh: Scott Kiloby) che ha postato in un altro forum:

http://now-for-you.com/viewtopic.php?p=34809&highlight=#34809

Mentre mi allontanavo dal computer, verso la cucina, e poi il bagno, ho notato che non riesco a fare una distinzione tra l'aria qui fuori, e me o l'aria e il lavandino. Dove finisce uno e inizia l'altro? Non sto scherzando. No, sto dicendo, vedi l'interazione. Come potrebbe uno esistere senza l'altro?

Sto inspirando aria nei miei polmoni proprio ora, e notando l'interazione. Questa tastiera è proprio alla fine delle mie dita, come un'estensione di me. La mia mente dice "No, quella è una tastiera, e queste sono le tue dita. Cose molto diverse," ma la consapevolezza (awareness, come jñāna) non fa quella distinzione in modo così netto. Certo, c'è un vedere che le mie dita appaiono così, e la tastiera appare diversa. Ma di nuovo, l'interazione.

Perché la mente fa una tale distinzione tra silenzio e suono. Siamo sicuri che siano separati? Ho appena detto "sì" nell'aria. Ho notato che c'era silenzio, poi la parola è entrata nell'aria, poi di nuovo silenzio. Queste due "cose" sono sposate, non è vero. Come può una esistere senza l'altra? E quindi sono separate? Certo, la mente dice "sì" sono separate. Potrebbe anche dire qualcosa che gli insegnanti hanno detto, cioè "tu sei consapevolezza (awareness, come jñāna)". Ma lo sono? E queste parole, e questa scrivania. È quella consapevolezza (awareness, come jñāna)? Dov'è la distinzione.

Inventiamo questa roba mentre procediamo, non è vero? Qualunque cosa vogliamo credere. "è tutto uno." "Io sono consapevolezza (awareness, come jñāna)." "Gesù Cristo è il mio salvatore." "Burro di arachidi e marmellata fa schifo." Sto scherzando ora. Ma come potrei sapere se queste cose sono separate, forma e assenza di forma se non guardo qui ora, a questa relazione, a come interagiscono. Di nuovo, questa sembra una domanda aperta. Potrei dire "è tutto Uno" o qualunque cosa come ho detto sopra e perdere l'occasione di guardare di nuovo a questa interazione, e vedere come le mie dita, la tastiera, l'aria, lo spazio davanti allo schermo, e lo schermo giocano insieme.


Ci sono due forme di conoscenza che entrano in gioco nella piena attenzione (mindfulness, sati). Una forma di conoscenza ha a che fare con il sentire. Sentire la nostra esperienza. Quindi la domanda è, dove avviene il sentire? Quindi se senti la tua mano proprio ora. Dove avviene il sentire nella tua mano. Avviene nel piede, dove avviene? Il sentire avviene nella mente?

...Nella tua mano. Certo. Qualcosa accade nella tua mano, che ti dà le sensazioni giusto, e io lo chiamo sentire. Sentire la mano nella mano. La mano sta avendo la sua propria esperienza della mano. Il tuo piede non sta sperimentando le tue mani. Ma quella mano sta avendo la sua propria esperienza della mano. La mente può sapere qual è quell'esperienza, ma la mano sta sentendo sé stessa. Vibrazioni, tensione, calore, freschezza. Le sensazioni accadono proprio lì nella mano. La mano sta sentendo sé stessa. C'è una sorta di consapevolezza (awareness, come jñāna) che esiste nel luogo in cui la stiamo sperimentando. Ha un senso? Qualcuno di voi è confuso a questo punto?

...Parte di ciò che la pratica della piena attenzione (mindfulness, sati) comporta è rilassarsi nel sentire dell'esperienza. E semplicemente permettere a noi stessi di diventare le sensazioni dell'esperienza. Portare un senso di presenza o coinvolgimento... permettere a noi stessi di far davvero entrare quell'esperienza sensoriale... qualunque cosa accada nella vita, qualunque esperienza stiamo avendo, ha un elemento di essere anche sensoriale. "Il risveglio (Awakening) ci chiama dall'interno di ogni cosa" è un suggerimento - Entra, e immergiti nell'immediatezza di come viene sentita. Quello è un mondo nonduale. Non c'è dualità tra l'esperienza e la sensazione, la sensazione e il sentirla. C'è una sensazione e un sentirla proprio lì, giusto? Non c'è sensazione senza un sentire, anche se potresti non prestarci attenzione, c'è una sorta di sentire che avviene lì. Quindi parte della pratica buddista è addentrarsi in questo mondo non-dualistico... questo mondo indiviso di come il sentire sta accadendo in sé e per sé. La maggior parte di noi si tiene distinta da esso, separata da esso. Lo giudichiamo, lo misuriamo, lo definiamo contro noi stessi, ma se ci rilassiamo e ci addentriamo nell'immediatezza della vita... allora c'è qualcosa lì dentro che il seme-di-Buddha può iniziare a sbocciare e crescere. ~ Gil Fronsdal sulla Natura di Buddha, 2004

(un'altra parte)... E man mano che ciò viene in qualche modo assestato e affrontato nella pratica, per entrare più profondamente e più pienamente nella nostra esperienza, dobbiamo anche in qualche modo affrontare [impercettibile] molto molto sottile, che le tradizioni chiamano un senso di Essere-AM. Che Io Sono. E può sembrare molto innocente, molto ovvio, che non sono un dottore, non sono questo e non sono quello, non mi aggrapperò a quello come mia identità. Ma sai, io sono. Penso, dunque sono. Sento, dunque sono. Sono cosciente, dunque sono. C'è una sorta di Agente, una sorta di Essere, una sorta di Essere-AM qui. Solo un senso di presenza, e quella presenza che vibra, quella presenza che conosce sé stessa... solo una sorta di senso di Essere-AM. E la gente dice, beh sì, quell'Essere-AM semplicemente È, è non-duale. Non c'è esterno o interno, solo un senso di Essere-AM. Le tradizioni buddiste dicono che se vuoi entrare in questa immediatezza della vita, entrare pienamente nell'esperienza della vita, devi anche fare i conti con il sottilissimo senso di Essere-AM, e lasciarlo dissolvere e cadere, e allora si apre al mondo del risveglio (awakening), della libertà.

~ Gil Fronsdal sulla Natura di Buddha, 2004

"Gil Fronsdal (1954) è un buddista che pratica Zen e Vipassana dagli anni '70, ed è attualmente un insegnante buddista che vive nella San Francisco Bay Area. È l'insegnante guida dell'Insight Meditation Center (IMC) di Redwood City, California. È uno dei buddisti americani più noti. Ha un dottorato di ricerca in Studi Buddisti presso la Stanford University. I suoi numerosi discorsi sul dharma disponibili online contengono informazioni di base sulla meditazione e sul buddismo, nonché concetti sottili del buddismo spiegati a livello laico." ha anche ricevuto la trasmissione del dharma da un abate zen."

Aggiornamento 2021 con più citazioni:

Thusness, 2009:

"...momento di illuminazione immediata e intuitiva in cui hai compreso qualcosa di innegabile e incrollabile -- una convinzione così potente che nessuno, nemmeno Buddha può sviarti da questa realizzazione perché il praticante vede così chiaramente la verità (真 zhēn) di essa. È la visione profonda (insight) diretta e incrollabile di 'Tu'. Questa è la realizzazione che un praticante deve avere per realizzare il satori Zen. Comprenderai chiaramente perché è così difficile per quei praticanti rinunciare a questo 'Essere-AM' e accettare la dottrina di anatta. In realtà non c'è rinuncia a questo 'Testimone', è piuttosto un approfondimento della visione profonda (insight) per includere la natura non-duale, senza fondamento e interconnessa della nostra natura luminosa. Come ha detto Rob, "mantieni l'esperienza ma affina le visioni filosofiche (dṛṣṭi)"." - Realizzazione ed Esperienza ed Esperienza Non-Duale da Diverse Prospettive http://www.awakeningtoreality.com/2009/09/realization-and-experience-and-non-dual.html

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“[17:24, 24/4/2020] John Tan: Qual è l'esperienza più importante in IO SONO? Cosa deve accadere in IO SONO? Non c'è nemmeno un AM, solo IO... immobilità completa, solo IO corretto?

[17:26, 24/4/2020] Soh Wei Yu: Realizzazione, certezza dell'essere.. sì solo immobilità e senso indubitabile di Io/Esistenza

[17:26, 24/4/2020] John Tan: E cos'è l'immobilità completa solo Io?

[17:26, 24/4/2020] Soh Wei Yu: Solo Io, solo presenza stessa

[17:28, 24/4/2020] John Tan: Questa immobilità assorbe esclude e include tutto nel solo Io. Come si chiama quell'esperienza? Quell'esperienza è non-duale. E in quell'esperienza in realtà, non c'è esterno né interno, non c'è nemmeno osservatore o osservato. Solo completa immobilità come Io.

[17:31, 24/4/2020] Soh Wei Yu: Capisco.. sì anche IO SONO è nonduale

[17:31, 24/4/2020] John Tan: Quella è la tua prima fase di un'esperienza non duale. Diciamo che questa è l'esperienza del pensiero puro nell'immobilità. Regno del pensiero. Ma in quel momento non lo sappiamo... lo trattavamo come realtà ultima.

[17:33, 24/4/2020] Soh Wei Yu: Sì… lo trovavo strano a quel tempo quando dicevi che è pensiero non concettuale. Lol

[17:34, 24/4/2020] John Tan: Sì

[17:34, 24/4/2020] John Tan: Lol” – Estratto da Differenziare IO SONO, Una Mente, Nessuna Mente e Anatta

http://www.awakeningtoreality.com/2018/10/differentiating-i-am-one-mind-no-mind.html

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"Il senso di 'Sé' deve dissolversi in tutti i punti di entrata e di uscita. Nella prima fase della dissoluzione, la dissoluzione del 'Sé' si riferisce solo al regno del pensiero. L'entrata è a livello mentale. L'esperienza è l''Essere-AM'. Avendo tale esperienza, un praticante potrebbe essere sopraffatto dall'esperienza trascendentale, attaccarvisi e scambiarla per lo stadio più puro della coscienza, non rendendosi conto che è solo uno stato di 'non-sé' relativo al regno del pensiero." - John Tan, più di dieci anni fa

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Aggiornamento 17/7/2021 con più citazioni:

L'Assoluto separato dalla transitorietà è ciò che ho indicato come lo 'Sfondo' nei miei 2 post a theprisonergreco.

84. RE: Esiste una realtà assoluta? [Skarda 4 di 4]

27 Mar 2009, 9:15 EDT | Post modificato: 27 Mar 2009, 9:15 EDT

Ciao theprisonergreco,

Innanzitutto cos'è esattamente lo 'sfondo'? In realtà non esiste. È solo un'immagine di un'esperienza 'non-duale' che è già passata. La mente dualistica fabbrica uno 'sfondo' a causa della povertà del suo meccanismo di pensiero dualistico e inerente. 'Non può' capire o funzionare senza qualcosa a cui aggrapparsi. Quell'esperienza dell''Io' è un'esperienza completa, non-duale in primo piano.

Quando il soggetto di sfondo è compreso come un'illusione (假 jiǎ), tutti i fenomeni transitori si rivelano come Presenza. È come essere naturalmente 'vipassanici' per tutto il tempo. Dal sibilo del PC, alla vibrazione del treno MRT in movimento, alla sensazione quando i piedi toccano terra, tutte queste esperienze sono cristalline, non meno “IO SONO” di “IO SONO”. La Presenza è ancora pienamente presente, nulla è negato.2 -:) Quindi l'“IO SONO” è proprio come qualsiasi altra esperienza quando la scissione soggetto-oggetto scompare. Non diverso da un suono che sorge. Diventa solo uno sfondo statico come un ripensamento quando le nostre tendenze dualistiche e inerenti sono in azione.

Il primo stadio dell''Io-ità' dello sperimentare la consapevolezza (awareness, come jñāna) faccia a faccia è come un punto su una sfera che hai chiamato centro. L'hai segnato.

Poi più tardi hai realizzato che quando hai segnato altri punti sulla superficie di una sfera, essi hanno le stesse caratteristiche (lakṣaṇa). Questa è l'esperienza iniziale del non-duale. Una volta che la visione profonda (insight) del Non-Sé è stabilizzata, punti semplicemente liberamente a qualsiasi punto sulla superficie della sfera -- tutti i punti sono un centro, quindi non c'è 'il' centro. 'Il' centro non esiste: tutti i punti sono un centro.

Dopo di che la pratica passa da 'concentrativa' a 'senza sforzo'. Detto questo, dopo questa visione profonda (insight) non-duale iniziale, lo 'sfondo' emergerà ancora occasionalmente per altri anni a causa delle tendenze latenti...

  1. RE: Esiste una realtà assoluta? [Skarda 4 di 4] 27 Mar 2009, 11:59 EDT | Post modificato: 27 Mar 2009, 11:59 EDT Per essere più esatti, la cosiddetta coscienza di 'sfondo' è quell'accadere primordiale. Non c'è uno 'sfondo' e un 'accadere primordiale'. Durante la fase iniziale del non-duale, c'è ancora un tentativo abituale di 'fissare' questa scissione immaginaria che non esiste. Matura quando realizziamo che anatta è un sigillo (法印), non uno stadio; nell'udire, sempre solo suoni; nel vedere sempre solo colori, forme; nel pensare, sempre solo pensieri. Sempre e già così. -:)

Molti non-dualisti dopo la visione profonda (insight) intuitiva dell'Assoluto si aggrappano strettamente all'Assoluto. Questo è come attaccarsi a un punto sulla superficie di una sfera e chiamarlo 'l'unico e solo centro'. Anche per quegli Advaitin che hanno una chiara visione profonda (insight) esperienziale del non-sé (nessuna scissione oggetto-soggetto), un'esperienza simile a quella di anatta (Primo svuotamento del soggetto) non sono risparmiati da queste tendenze. Continuano a sprofondare di nuovo in una Sorgente.

È naturale riferirsi di nuovo alla Sorgente quando non abbiamo sufficientemente dissolto la disposizione latente ma deve essere correttamente compresa per quello che è. È necessario e come possiamo riposare nella Sorgente quando non possiamo nemmeno localizzare dove si trovi? Dov'è quel luogo di riposo? Perché sprofondare di nuovo? Non è quella un'altra illusione (假 jiǎ) della mente? Lo 'Sfondo' è solo un momento di pensiero per richiamare o un tentativo di riconfermare la Sorgente. Come è necessario questo? Possiamo anche essere un momento di pensiero separati? La tendenza ad afferrare, a solidificare l'esperienza in un 'centro' è una tendenza abituale della mente all'opera. È solo una tendenza karmica. Realizzalo! Questo è ciò che intendevo per Adam la differenza tra Una-Mente e Nessuna-Mente.

https://www.facebook.com/groups/AwakeningToReality/posts/5804073129634069/?__cft__[0]=AZWpMDEV218K3H-JyXffWytBU6hfqLg5-jh8jKv_HBTbxGFdfN-mrIlO4UgEm08Q1Z4kENhh1SCwePPimVxSZDHm-eJ0sCm3bCcs24Oz8g6UprasphjhEOSw8RQeTzm5QbFKPS1MGRr8iofZqfwnbNF0Z6UPtC9LAoK6C1QNMzqfkfJg4mHzD8Zg2SSy4Q-YQWI&__tn__=%2CO%2CP-R3

Kevin Schanilec

Grazie per aver pubblicato la tua conversazione con John Tan. Sono nuovo qui - grazie per aver approvato la mia iscrizione 🙂

Sembra che l'attenzione sull'"Io Sono" sia uno dei principali fattori distintivi tra Buddismo e approcci Advaita/Non-duali. Alcuni insegnanti molto noti in quest'ultimo approccio dicono che il Buddha insegnò la scoperta e l'affermazione dell'"Io Sono" (sperimentato come essere, coscienza, consapevolezza (awareness, come jñāna), presenza, ecc.) come ciò di cui tratta il risveglio (awakening), mentre il Buddha insegnò che è di fatto una delle nostre illusioni (假 jiǎ) più profondamente radicate. La descriverei come una dualità molto sottile che non sembrava esserlo, eppure una volta che scompare è ovvio che c'era una dualità in atto.

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· 16m

Soh Wei Yu

Ammin

Kevin Schanilec

Sì, benvenuto Kevin Schanilec. Mi è piaciuto leggere alcuni dei tuoi articoli.

Riguardo a IO SONO: La visione filosofica (dṛṣṭi) e il paradigma si basano ancora sulla 'dualità soggetto/oggetto' e sull''esistenza inerente' nonostante il momento di esperienza o autenticazione nonduale. Ma AtR lo considera anche una realizzazione importante, e come molti insegnanti Zen, Dzogchen e Mahamudra, persino Theravada della Foresta Thailandese, viene insegnato come una visione profonda (insight) o realizzazione preliminare importante.

La guida AtR ha alcuni estratti su questo:

https://app.box.com/s/157eqgiosuw6xqvs00ibdkmc0r3mu8jg

"Come disse anche John Tan nel 2011:

“John: cos'è "IO SONO"

è un pce? (Soh: PCE = esperienza di pura coscienza, vedi glossario in fondo a questo documento)

c'è emozione

c'è sentimento

c'è pensiero

c'è divisione o completa immobilità?

nell'udire c'è solo suono, solo questa completa, diretta chiarezza del suono!

quindi cos'è "IO SONO"?

Soh Wei Yu: è lo stesso

solo quel puro pensiero non concettuale

John: c'è 'essere'?

Soh Wei Yu: no, un'identità ultima viene creata come un ripensamento

John: infatti

è la mal-interpretazione dopo quell'esperienza che sta causando la confusione

quell'esperienza stessa è pura esperienza cosciente

non c'è nulla che sia impuro

ecco perché è un senso di pura esistenza

è solo scambiato a causa della 'visione filosofica (dṛṣṭi) errata'

quindi è una pura esperienza cosciente nel pensiero.

non suono, gusto, tatto...ecc

PCE (Esperienza di Pura Coscienza) riguarda l'esperienza diretta e pura di qualunque cosa incontriamo nella vista, nel suono, nel gusto...

la qualità e la profondità dell'esperienza nel suono

nei contatti

nel gusto

nello scenario

ha veramente sperimentato l'immensa chiarezza luminosa nei sensi?

se sì, che dire del 'pensiero'?

quando tutti i sensi sono chiusi

il puro senso di esistenza così com'è quando i sensi sono chiusi.

poi con i sensi aperti

avere una chiara comprensione

non confrontare irrazionalmente senza una chiara comprensione”

Nel 2007:

(21:12) Thusness: non pensare che "Essere-AM" sia uno stadio basso di risveglio (enlightenment) leh

(21:12) Thusness: l'esperienza è la stessa. è solo la chiarezza. In termini di visione profonda (insight). Non esperienza.

(21:13) AEN: capisco..

(21:13) Thusness: quindi una persona che ha sperimentato "Essere-AM" e non duale è la stessa. tranne che la visione profonda (insight) è diversa.

(21:13) AEN: capisco

(21:13) Thusness: non duale è ogni momento c'è l'esperienza della presenza. o la visione profonda (insight) nell'esperienza della presenza di ogni momento. perché ciò che impedisce quell'esperienza è l'illusione (假 jiǎ) del sé e "IO SONO" è quella visione filosofica (dṛṣṭi) distorta. l'esperienza è la stessa leh.

(21:15) Thusness: non hai visto che dico sempre che non c'è niente di sbagliato in quell'esperienza a longchen, jonls... dico solo che è sbilanciata verso il regno del pensiero. quindi non differenziare ma sappi qual è il problema. Dico sempre che è una mal-interpretazione dell'esperienza della presenza. non l'esperienza stessa. ma "Essere-AM" ci impedisce di vedere.

Nel 2009:

“(22:49) Thusness: a proposito sai della descrizione di hokai e "IO SONO" è la stessa esperienza?

(22:50) AEN: l'osservatore giusto

(22:52) Thusness: no. intendo la pratica shingon del corpo, mente, parola in uno.

(22:53) AEN: oh quella è l'esperienza io sono?

(22:53) Thusness: sì, tranne che l'oggetto della pratica non si basa sulla coscienza. cosa si intende per primo piano? è la scomparsa dello sfondo e ciò che resta è esso. similmente l'"IO SONO" è l'esperienza di nessuno sfondo e sperimentare la coscienza direttamente. ecco perché è semplicemente "Io-Io" o "IO SONO"

(22:57) AEN: ho sentito come la gente descrive la coscienza come la coscienza di sfondo che diventa il primo piano... quindi c'è solo coscienza consapevole (aware) di sé stessa e quella è ancora come l'esperienza IO SONO

(22:57) Thusness: ecco perché è descritta in quel modo, consapevolezza (awareness, come jñāna) consapevole (aware) di sé stessa e come sé stessa.

(22:57) AEN: ma hai anche detto che le persone IO SONO sprofondano in uno sfondo?

(22:57) Thusness: sì

(22:57) AEN: sprofondare nello sfondo = sfondo che diventa primo piano?

(22:58) Thusness: ecco perché ho detto che è frainteso. e lo trattiamo come ultimo.

(22:58) AEN: capisco ma ciò che hokai ha descritto è anche esperienza nonduale giusto

(22:58) Thusness: Ti ho detto molte volte che l'esperienza è giusta ma la comprensione è sbagliata. ecco perché è una visione profonda (insight) e un'apertura degli occhi della saggezza. non c'è niente di sbagliato nell'esperienza di IO SONO". ho detto che c'è qualcosa di sbagliato in essa?

(22:59) AEN: no

(22:59) Thusness: anche nella fase 4 cosa ho detto?

(23:00) AEN: è la stessa esperienza tranne nel suono, nella vista, ecc

(23:00) Thusness: suono come la stessa identica esperienza di "IO SONO"... come presenza.

(23:00) AEN: capisco

(23:00) Thusness: sì”

“"IO SONO" è un pensiero luminoso in samadhi come Io-Io. Anatta è una realizzazione di ciò estendendo la visione profonda (insight) alle 6 entrate e uscite.” – John Tan, 2018

Estratto da Nessuna Consapevolezza (Awareness) Non Significa Inesistenza della Consapevolezza (Awareness) http://www.awakeningtoreality.com/2019/01/no-awareness-does-not-mean-non.html :

“2010:

(23:15) Thusness: ma capirlo erroneamente è un'altra questione

puoi negare il Testimoniare?

(23:16) Thusness: puoi negare quella certezza dell'essere?

(23:16) AEN: no

(23:16) Thusness: allora non c'è niente di sbagliato in esso

come potresti negare la tua stessa esistenza?

(23:17) Thusness: come potresti negare l'esistenza del tutto

(23:17) Thusness: non c'è niente di sbagliato nello sperimentare direttamente senza intermediari il puro senso di esistenza

(23:18) Thusness: dopo questa esperienza diretta, dovresti affinare la tua comprensione, la tua visione filosofica (dṛṣṭi), le tue visioni profonde (insights)

(23:19) Thusness: non dopo l'esperienza, deviare dalla visione filosofica (dṛṣṭi) corretta, rafforzare la tua visione filosofica (dṛṣṭi) errata

(23:19) Thusness: non neghi il testimone, affini la tua visione profonda (insight) di esso

cosa si intende per non-duale

(23:19) Thusness: cosa si intende per non-concettuale

cosa significa essere spontaneo

qual è l'aspetto di 'impersonalità'

(23:20) Thusness: cos'è la luminosità.

(23:20) Thusness: non sperimenti mai nulla di immutabile

(23:21

PM) Thusness: in una fase successiva, quando sperimenti il non-duale, c'è

ancora questa tendenza a concentrarsi su uno sfondo... e questo impedirà il tuo

progresso nella visione profonda (insight) diretta nel TATA come descritto nell'articolo

tata. ( https://awakeningtoreality.blogspot.com/2010/04/tada.html )

(23:22) Thusness: e ci sono ancora diversi gradi di intensità anche se hai realizzato a quel livello.

(23:23) AEN: non duale?

(23:23) Thusness: tada (un articolo) è più che non-duale...è la fase 5-7

(23:24) AEN: capisco..

(23:24) Thusness: riguarda tutto l'integrazione della visione profonda (insight) di anatta e della vacuità

(23:25

PM) Thusness: vividezza nella transitorietà, sentire ciò che ho chiamato 'la

tessitura e la trama' della Consapevolezza (Awareness, come jñāna) come forme è molto importante

poi viene la vacuità

(23:26) Thusness: l'integrazione di luminosità e vacuità

(continua)

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Soh Wei Yu

Ammin

(22:45) Thusness: non negare quel Testimoniare ma affina la visione filosofica (dṛṣṭi), questo è molto importante

(22:46) Thusness: finora, hai correttamente sottolineato l'importanza del testimoniare

(22:46) Thusness: a differenza del passato, davi alle persone l'impressione di negare questa presenza testimoniante

(22:46) Thusness: hai semplicemente negato la personificazione, la reificazione e l'oggettivazione

(22:47) Thusness: così puoi progredire ulteriormente e realizzare la nostra natura vuota.

ma non pubblicare sempre quello che ti dico su msn

(22:48) Thusness: in men che non si dica, diventerò una specie di leader di una setta

(22:48) AEN: capisco.. lol

(22:49) Thusness: anatta non è una visione profonda (insight) ordinaria. Quando potremo raggiungere il

livello di completa trasparenza, realizzerai i benefici

(22:50) Thusness: non-concettualità, chiarezza, luminosità, trasparenza,

apertura, spaziosità, assenza di pensiero, non-località...tutte queste

descrizioni diventano piuttosto prive di significato.

….

Inizio Sessione: Domenica, 19 Ottobre 2008

(13:01) Thusness: Sì

(13:01) Thusness: In realtà la pratica non è negare questo 'Jue' (consapevolezza, awareness come jñāna)

(18:11) Thusness: il modo in cui hai spiegato è come se 'non ci fosse Consapevolezza (Awareness)'.

(18:11) Thusness: Le persone a volte fraintendono ciò che stai cercando di comunicare. Ma per comprendere correttamente questo 'jue' (consapevolezza, awareness come jñāna) in modo che possa essere sperimentato da tutti i momenti senza sforzo.

(13:01) Thusness: Ma quando un praticante sente che non è 'ESSO', inizia immediatamente a preoccuparsi perché è il suo stato più prezioso.

(13:01) Thusness: Tutte le fasi scritte riguardano questo 'Jue' o Consapevolezza (Awareness, come jñāna).

(13:01) Thusness: Tuttavia ciò che la Consapevolezza (Awareness, come jñāna) è realmente non viene sperimentato correttamente.

(13:01) Thusness: Poiché non viene sperimentato correttamente, diciamo che 'la Consapevolezza (Awareness, come jñāna) che cerchi di mantenere' non esiste in quel modo.

(13:01) Thusness: Non significa che non ci sia Consapevolezza (Awareness, come jñāna).”

......

“William Lam: È non concettuale.

John Tan: È non concettuale. Sì. Okay. La presenza non è un'esperienza concettuale, deve essere diretta. E senti semplicemente un puro senso di esistenza. Significa che la gente ti chiede, prima della nascita, chi sei? Tu autentichi semplicemente l'Io, quello sei tu, direttamente. Quindi quando autentichi per la prima volta quell'Io, sei dannatamente felice, ovviamente. Da giovane, quella volta, wah… autentico questo Io… quindi pensavi di essere risvegliato (enlightened), ma poi il viaggio continua. Quindi questa è la prima volta che assaggi qualcosa di diverso. È… È prima dei pensieri, non ci sono pensieri. La tua mente è completamente immobile. Ti senti immobile, senti la presenza, e conosci te stesso. Prima della nascita sono Io, dopo la nascita, sono anche Io, 10.000 anni è ancora questo Io, 10.000 anni prima, è ancora questo Io. Quindi autentichi quello, la tua mente è solo quello e autentichi il tuo vero essere, quindi non ne dubiti. In una fase successiva…

Kenneth Bok: La presenza è questo IO SONO?

John Tan: La presenza è la stessa cosa di IO SONO. La presenza è la stessa cosa di… ovviamente, altre persone potrebbero non essere d'accordo, ma in realtà si riferiscono alla stessa cosa. La stessa autenticazione, la stessa cosa... anche nello Zen è ancora la stessa.

Ma in una fase successiva, lo concepisco solo come il regno del pensiero. Significa, nelle sei, chiamo sempre le sei entrate e le sei uscite, quindi c'è il suono e ci sono tutte queste… Durante quel periodo, dici sempre che non sono suono, non sono l'apparenza, IO SONO il Sé che è dietro tutte queste apparenze, giusto? Quindi, suoni, sensazioni, tutto questo va e viene, i tuoi pensieri vanno e vengono, quelli non sono me, corretto? Questo è l'Io ultimo. Il Sé è l'Io ultimo. Corretto?

William Lam: Quindi, è nonduale? Lo stadio IO SONO. È non-concettuale, era nonduale?

John Tan: È non concettuale. Sì, è nonduale. Perché è nonduale? In quel momento, non c'è affatto dualità, in quel momento quando sperimenti il Sé, non puoi avere dualità, perché sei autenticato direttamente come ESSO, come questo puro senso di Essere. Quindi, è completamente Io, non c'è nient'altro, solo Io. Non c'è nient'altro, solo il Sé. Penso, molti di voi hanno sperimentato questo, l'IO SONO. Quindi, probabilmente andrete a visitare tutti gli Induismi, canterete canzoni con loro, mediterete con loro, dormirete con loro, corretto? Quelli sono i giorni della gioventù. Medito con loro, ore dopo ore, medito, siedo con loro, mangio con loro, canto canzoni con loro, suono il tamburo con loro. Perché questo è ciò che predicano, e trovi questo gruppo di persone, che parlano tutte la stessa lingua.

Quindi questa esperienza non è un'esperienza normale, corretto? Voglio dire, probabilmente nei 15 anni della mia vita o 17 anni della mia vita, la mia prima... quando avevo 17 anni, quando l'hai sperimentato per la prima volta, wah, cos'è quello? Quindi, è qualcosa di diverso, è non concettuale, è non duale, e tutto questo. Ma è molto difficile tornare a quell'esperienza. Molto, molto difficile, a meno che tu non sia in meditazione, perché rifiuti il relativo, le apparenze. Quindi, è, sebbene possano dire no, no, è sempre con me, perché è Sé, corretto? Ma in realtà non torni all'autenticazione, solo puro senso di esistenza, solo me, perché rifiuti il resto di quelle apparenze, ma non lo sai durante quel periodo. Solo dopo anatta, allora realizzi che questo, quando quando senti il suono senza lo sfondo, quell'esperienza è esattamente la stessa, il sapore è esattamente lo stesso della presenza. La Presenza IO SONO. Quindi, solo dopo anatta, quando lo sfondo è sparito, allora realizzi eh, questo ha lo stesso identico sapore dell'esperienza IO SONO. Quando non stai ascoltando, sei solo nelle apparenze vivide, le apparenze ovvie ora, corretto. Quell'esperienza è anche l'esperienza IO SONO. Quando senti anche ora la tua sensazione senza il senso di sé direttamente. Quell'esperienza è esattamente la stessa del sapore IO SONO. È nonduale. Allora realizzi, chiamo, in realtà, tutto è Mente. Corretto? Tutto. Quindi, quindi prima di quello, c'è un Sé ultimo, uno sfondo, e rifiuti tutte quelle apparenze transitorie. Dopo di che, quello sfondo è sparito, sai? E allora sei solo tutte queste apparenze.

William Lam: Tu sei l'apparenza? Tu sei il suono? Tu sei il…

John Tan: Sì. Quindi, quindi, quella è un'esperienza. Quella è un'esperienza. Quindi dopo di che, realizzi qualcosa. Cosa hai realizzato? Realizzi che per tutto il tempo è il cosa, che ti sta oscurando. Quindi… in una persona, per una persona che è nell'esperienza IO SONO, l'esperienza della pura presenza, avranno sempre un sogno. Diranno che spero di poter essere 24 ore su 24, 7 giorni su 7 sempre in quello stato, corretto? Quindi quando ero giovane, 17. Ma poi dopo 10 anni stai ancora pensando. Poi dopo 20 anni, dici come mai ho bisogno di meditare sempre? Trovi sempre tempo per meditare, forse non studio anche medito, dammi una caverna l'ultima volta e mediterò semplicemente dentro.

Quindi, la cosa che sogni sempre di poter un giorno essere pura coscienza, solo come pura coscienza, vivere come pura coscienza, ma non la ottieni mai. E anche se mediti, occasionalmente probabilmente puoi avere quell'esperienza oceanica. Solo quando dopo anatta, quando quel sé dietro è sparito, non sei 24 ore su 24, 7 giorni su 7, forse la maggior parte del tuo giorno, stato di veglia, non così tanto 24 ore su 24, 7 giorni su 7, sogni quel tempo ancora molto karmico a seconda di ciò con cui ti impegni, fare affari, tutto questo. (John imita il sogno) Come mai ah, gli affari…

Quindi, quindi, nello stato di veglia normale, sei senza sforzo. Probabilmente quello è, durante la fase IO SONO, ciò che pensi di raggiungere, lo raggiungi dopo la visione profonda (insight) di anatta. Quindi diventi chiaro, sei probabilmente sulla strada giusta. Ma ci sono ulteriori visioni profonde (insights) che devi attraversare. Quando cerchi di penetrare il… uno di questi è, sento di diventare molto fisico. Sto solo narrando, ripercorrendo la mia esperienza. Forse quella volta… perché sperimenti il relativo, le apparenze direttamente. Quindi tutto diventa molto fisico. Quindi è così che arrivi a capire il significato, come i concetti ti influenzano effettivamente. Poi cos'è esattamente fisico? Come nasce l'idea di fisico, corretto? Quella volta non sapevo ancora della vacuità, e di tutte queste cose, per me non era così importante.

Quindi, inizio a indagare su cosa sia esattamente fisico, cosa sia esattamente essere fisico? Sensazione. Ma perché la sensazione è conosciuta come fisica, e cosa significa essere fisico? Come ho avuto l'idea di essere fisico? Quindi, ho iniziato a indagare su questa cosa. Che, eh, in realtà sopra a quello, ci sono ancora altre cose da decostruire, cioè il significato… che, proprio come il sé, sono attaccato al significato di sé, e crei un costrutto, diventa una reificazione. Stessa cosa, anche la fisicità. Quindi, decostruisci i concetti che circondano la fisicità. Corretto? Quindi, quando decostruisci quello, allora ho iniziato a realizzare che per tutto il tempo, cerchiamo di capire, anche dopo l'esperienza diciamo, di anatta e tutto questo… quando analizziamo, e quando pensiamo e cerchiamo di capire qualcosa, stiamo usando concetti scientifici esistenti, logica, logica quotidiana e tutto questo per capire qualcosa. Ed esclude sempre la coscienza. Anche se sperimenti, puoi condurre un sentiero spirituale sai, ma quando pensi e analizzi qualcosa, in qualche modo escludi sempre la coscienza dall'equazione per capire qualcosa. Il tuo concetto è sempre molto materialistico. Escludiamo sempre la coscienza dall'intera equazione.” - https://docs.google.com/document/d/16QGwYIP_EPwDX4ZUMUQRA30lpFx40ICpVr7u9n0klkY/edit Trascrizione dell'Incontro AtR (Awakening to Reality) del 28 Ottobre 2020

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Soh Wei Yu

Ammin

"Il senso di 'Sé' deve dissolversi in tutti i punti di entrata e di uscita. Nella prima fase della dissoluzione, la dissoluzione del 'Sé' si riferisce solo al regno del pensiero. L'entrata è a livello mentale. L'esperienza è l''Essere-AM'. Avendo tale esperienza, un praticante potrebbe essere sopraffatto dall'esperienza trascendentale, attaccarvisi e scambiarla per lo stadio più puro della coscienza, non rendendosi conto che è solo uno stato di 'non-sé' relativo al regno del pensiero." - John Tan, più di dieci anni fa

“La realizzazione diretta della Mente è senza forma, senza suono, senza odore, senza fragranza, ecc. Ma più tardi si realizza che forme, odori, fragranze, sono Mente, sono Presenza, Luminosità. Senza una realizzazione più profonda, si ristagna semplicemente al livello IO SONO e ci si fissa sull'informe, ecc. Questo è lo Stadio 1 di Thusness.

L'Io-Io o IO SONO viene successivamente realizzato essere semplicemente un aspetto o 'porta dei sensi' o 'porta' della coscienza primordiale (pristine consciousness). Viene successivamente visto non essere più speciale o ultimo di un colore, un suono, una sensazione, un odore, un tatto, un pensiero, ognuno dei quali rivela la sua vibrante vitalità e luminosità. Lo stesso sapore di IO SONO è ora esteso a tutti i sensi. In questo momento non lo senti, hai autenticato solo la luminosità della porta della Mente/pensiero. Quindi la tua enfasi è sull'informe, inodore, e così via. Dopo anatta è diverso, tutto ha lo stesso sapore luminoso, vuoto.

E l''IO SONO' della porta della mente non è affatto diverso da qualsiasi altra porta dei sensi, è diverso solo in quanto è una 'diversa' manifestazione di condizioni (pratyaya) diverse proprio come un suono è diverso da una vista, un odore è diverso da un tatto. Certo, la porta della Mente è inodore, ma questo non è affatto diverso dal dire che la porta della visione è inodore e la porta del suono è senza sensazioni. Non implica una sorta di gerarchia o ultimalità di un modo di conoscibilità (knowingness) rispetto a un altro. Sono semplicemente diverse porte dei sensi ma ugualmente luminose e vuote, ugualmente natura-di-buddha.” – Soh, 2020

John Tan:

Quando la coscienza sperimenta il puro senso di “IO SONO”, sopraffatta dal momento trascendentale senza pensieri dell'Essere (Beingness), la coscienza si aggrappa a quell'esperienza come la sua identità più pura. Facendo ciò, crea sottilmente un 'osservatore' e non riesce a vedere che il 'Puro Senso di Esistenza' non è altro che un aspetto della pura coscienza relativo al regno del pensiero. Questo a sua volta serve come condizione (pratyaya) karmica che impedisce l'esperienza della pura coscienza che sorge da altri oggetti sensoriali. Estendendolo agli altri sensi, c'è udire senza un uditore e vedere senza un vedente -- l'esperienza della Pura Coscienza-Suono è radicalmente diversa dalla Pura Coscienza-Vista. Sinceramente, se siamo in grado di rinunciare all''Io' e sostituirlo con "Natura di Vacuità", la Coscienza è sperimentata come non-locale. Non c'è uno stato che sia più puro dell'altro. Tutto è solo Un Sapore, la molteplicità della Presenza.

  • http://www.awakeningtoreality.com/.../mistaken-reality-of... (La Natura di Buddha NON è "Io Sono") La Natura di Buddha NON è "Io Sono" AWAKENINGTOREALITY.COM La Natura di Buddha NON è "Io Sono" La Natura di Buddha NON è "Io Sono" · Rispondi · Rimuovi Anteprima · 3m · Modificato

"John Tan: La chiamiamo la presenza o la chiamiamo, um, la chiamiamo la presenza. (Interlocutore: è l'IO SONO?) IO SONO è effettivamente diverso. È anche presenza. È anche presenza. IO SONO, a seconda di... Vedi anche la definizione di IO SONO. Quindi, uh. Non proprio la stessa per alcune persone, come Jonavi? Mi ha effettivamente scritto dicendo che il suo IO SONO è come localizzato nella testa. Quindi è molto individuale. Ma non è l'IO SONO di cui stiamo parlando. L'IO SONO è in realtà un uh, come per esempio, penso, uh. Long Chen (Sim Pern Chong) l'ha effettivamente attraversato. È in realtà onnicomprensivo. È in realtà ciò che chiamiamo un'esperienza non-duale. È in realtà un, um. Non ci sono pensieri. È solo un puro senso di esistenza. E può essere molto potente. È davvero un'esperienza molto potente. Quindi quando, diciamo quando sei. Quando sei molto giovane. Specialmente quando hai la mia età. Quando sperimenti per la prima volta IO SONO, è molto diverso. È un'esperienza molto diversa. Non l'abbiamo mai sperimentata prima. Quindi, um, non so nemmeno se possa essere considerata un'esperienza. Um, perché non ci sono pensieri. È solo Presenza. Ma questa presenza è molto rapidamente. È molto rapidamente. sì. È davvero rapidamente. Um. Fraintesa a causa della nostra tendenza karmica a comprendere qualcosa in modo dualistico e in modo molto concreto. Quindi molto quando sperimentiamo abbiamo l'esperienza, l'interpretazione è molto diversa. E quella, la, la, la maniera sbagliata di interpretare crea effettivamente un'esperienza molto dualistica." - Estratto da https://docs.google.com/document/d/1MYAVGmj8JD8IAU8rQ7krwFvtGN1PNmaoDNLOCRcCTAw/edit?usp=sharing Trascrizione dell'Incontro AtR (Awakening to Reality), Marzo 2021

Inoltre,

“Inizio Sessione: Martedì, 10 Luglio 2007

(11:35) Thusness: X una volta diceva qualcosa come dovremmo 'yi jue' (fare affidamento sulla consapevolezza, awareness come jñāna) e non 'yi xin' (fare affidamento sui pensieri) perché jue è eterno, i pensieri sono impermanenti... qualcosa del genere. questo non è corretto. questo è l'insegnamento advaita.

(11:35) AEN: capisco

(11:36) Thusness: ora ciò che è più difficile da capire nel buddismo è questo. sperimentare l'immutabile non è difficile. ma sperimentare l'impermanenza e tuttavia conoscere la natura non nata è saggezza prajna. Sarebbe un malinteso pensare che Buddha non conosca lo stato di immutabilità. o quando Buddha parlava di immutabilità si riferisse a uno sfondo immutabile. altrimenti perché avrei sottolineato così tanto l'incomprensione e la mal interpretazione. E ovviamente, è un malinteso che io non abbia sperimentato l'immutabile. 🙂 ciò che devi sapere è sviluppare la visione profonda (insight) nell'impermanenza e tuttavia realizzare il non nato. questa allora è saggezza prajna. 'vedere' la permanenza e dire che è non nata è inerzia. quando buddha dice permanenza non si riferisce a quello. per andare oltre l'inerzia devi essere in grado di essere nudo per un periodo di tempo prolungato. poi sperimenta l'impermanenza stessa, senza etichettare nulla. i sigilli (法印) sono ancora più importanti del buddha in persona. anche buddha quando frainteso diventa senziente. 🙂 longchen [Sim Pern Chong] ha scritto un passaggio interessante su closinggap. reincarnazione.

(11:47) AEN: oh sì l'ho letto

(11:48) Thusness: quello in cui chiarisce la risposta di kyo?

(11:50) AEN: sì

(11:50) Thusness: quella risposta è una risposta molto importante, e dimostra anche che longchen ha realizzato l'importanza dei transienti e dei cinque aggregati (五蕴) come natura di buddha. tempo per la natura non nata. Vedi, ci vuole passare attraverso tali fasi, da "IO SONO" a Non-duale a essere (isness) poi alle basi stesse di ciò che buddha insegnò… Riesci a vederlo?

(11:52) AEN: sì

(11:52) Thusness: più si sperimenta, più verità (真 zhēn) si vede in ciò che buddha insegnò nell'insegnamento più basilare. Qualunque cosa longchen sperimenti non è perché ha letto ciò che buddha insegnò, ma perché lo sperimenta realmente.

(11:54) AEN: capisco..”

Vedi anche: 1) Le Sette Fasi del Risveglio (Enlightenment) di Thusness/PasserBy

2) Su Anatta (Non-Sé), Vacuità, Maha e Ordinarità, e Perfezione Spontanea (本自圆成)

Errata Interpretazione di IO SONO come Sfondo

Vedi anche: Il Dharma Non Nato

Etichette: Anatta, Essere-AM, John Tan, Non Duale, Sé | "