Soh
『無我(アナッター)、空性、摩訶(マハー)と平凡、そして自然円満について』

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あわせて参照: 「I AM 体験後の二種の非二元的観照」 「+A と -A の空性」

(最終更新:2009 年 3 月 14 日)

記事執筆:Thusness/PasserBy

不思議なことに、近ごろフォーラムでアナッター(無我)の話題がたびたび浮上します。 おそらく「縁(yuan)」が熟したのでしょう。 ここでは私の「無我」経験についての所感を走り書きします。権威づけではなく、あくまで気軽な共有です。

次の二つの偈(スタンザ)は、私を無我の直接経験へ導くうえで決定的でした。 どちらも無我について同じことを述べているように見えますが、この二偈を観じていくと、空性の側面と非二元の光明性の側面という、性質の異なる二つの体験的洞見が得られます。 それらの洞見は、私たちの「気づき(アウェアネス)」に対する常識的理解と大きく矛盾しており、非常に啓示的です。


考えることはある、考える者はいない 
聞こえることはある、聞き手はいない 
見えることはある、見る者はいない

考えるとき、ただ思考 
聞くとき、ただ音 
見るとき、ただ形・相・色


先へ進む前に、これらの偈は推論や演繹・帰納では正しく理解できないことを強調しておきます。 ここに神秘や超越という意味はありません。 ただ、雑談めいた思考の道筋が「誤ったアプローチ」だということです。 正しい技法はヴィパッサナー、あるいは「あるがままを見る」ための、より直接的で注意深い裸の観察です。 付け加えると、非二元の洞見が熟すとそのような知り方は自然なものになりますが、それまでは多少の「努力感」を伴いがちです。

第一の偈に入るにあたり、前提を明らかにします。

第一偈の初見から際立って現れる二つの体験は、作者の「七段階の洞見」における第 5 段階へ直結する鍵となりました。

第一の偈について。

ひとつ目は、経験を結び付け調整する「行為者性」の欠如です。 ふたつ目は、主体(エージェント)の不在を直接に看取することです。

「私」という連結がないとき、諸現象(思考・音・感覚など)は泡のように、自由に・自発的に・無辺際に浮かび現れます。 行為者性の不在とともに、深い自由と透明さの感覚がやって来ます。 逆説的に聞こえるかもしれませんが、これは経験的事実です。 「自性(本質)がある」という把持が強いと、自由を「無為・相依・相関・光明・非二元的プレゼンス」として見る理解が阻まれます。 いかに「本質視」が視野を狭めるかは驚くべきことです。

もうひとつは、主体の不在を直接に見抜くことです。 ここでは「主体がいない」とはっきり認識されます。 あるのはただひとつの思考、そして次の思考。 したがって、いつでも「思考が思考を見ている」のであって、「見張り役が思考を見ている」のではありません。 ただし、この洞見の眼目は、解放の自発性の味わいと、諸現象の空なる性質へのかすかな一瞥に偏ります――すなわち、移ろいは泡のようで、実体性や堅固さはないということです。 この段階で、現象と気づきの「空(から)」の性質をすべて見通したと早合点しがちですが、そうではありません。 :)

条件しだいでは、「つねに思考が思考を見ているのであって、見張り役が思考を見ているのではない」「見張り役とはその思考にほかならない」ことが自明でないかもしれません。 これは解脱の道で決して取り違えてはならない肝心要の洞見なので、あえて不遜に聞こえる物言いをします。 「思考は起こるにまかせて、背景の鏡は完全で不動」などと説く師家がいるなら、 失礼ながら、それは耳触りはよいが迷妄の言説です。

そうではなく、思考の背後に誰もいないと見よ。 最初はひとつの思考、そして次の思考。 洞見が深まると、ついにこう明らかになる―― つねにただこれ、「唯一の思考」! 不生にして、光明にして、しかも空!

これこそが無我(アナッター)の眼目です。 すなわち、背景はそもそも実在しないと徹底して見抜くこと。 実在するのは流れ・働き・カルマだけです。 行為者も行為された何かもなく、あるのはただ行為だけ。 瞑想者も瞑想もなく、あるのはただ瞑想中であることだけ。

「見張り役が思考を見ている」という構図は、思考が起こり滅びるのを見張り役が不動で許しているという印象を生みます。 これは「手放し」に見せかけた保持であり、まやかしです。 そもそも背景などなかったと見抜かれるとき、現実は丸ごとひとつの「手放し」として立ち現れます。 修習が進み洞見が熟すとともに、意図はやせ細り、なされることは自発の出来事として体験されます――まるで宇宙が仕事をしているかのように。 さらに縁起(因縁所生)の示唆を取り入れると、この出来事が「すべてがすべてと相互に関わり合っている」表現として見抜かれます。 「宇宙」を実体化しなければ、そこにあるのはただ「どこでも・いつでも、ちょうどそのまま正しい」相依相関の表現だけです。

これが理解されると、実践は「いま起こっていること」にただ開くことに尽きます。 この「ただの出来事」は、どこでもいつでも、ちょうどそのまま正しい。 住処と呼べる場所はどこにもないのに、いたるところが家なのです。

安らぎの大いなる実践が熟すと、体験はマハー――偉大・奇跡・歓喜――となります。 見る・食べる・味わうという日常の営みが、詩的に言えば、まるで全宇宙が坐禅しているかのように表現されます。

語られ表現される事柄はみな、 「すべてのすべてが相依相関して」 「この刹那の生き生きしたきらめきとして」 起こっているという、同じ真実の別の風味にすぎません。

そのころには、無常の出来事は最初から完全な仕方で起こっていると明らかです。 解かれるべきものは解かれ、現れるべきものは現れ、行くべきときに静まります。 問題があるのは無常の出来事ではなく、「余計な鏡」という再実体化――抽象する心の力――です。 完全なのは鏡ではなく、出来事そのものです。 鏡が完全に見えるのは、二元的で本質主義的な見方をしている場合だけです。

深く染みついた本質視・二元視は、「光明の側面」をさりげなく見張り役へと擬人化し、 「空の側面」を移ろいへと追いやってしまいます。 実践の最大の課題は、光明と空が本来一体であり、けっして分かれ得ないと、明晰に見ることです。

第二の偈について。

第二偈では、移ろいそのものの生々しい純粋性に焦点が当たります。 思考・音など、あらゆる移ろいは気づきと区別できず、体験者‐体験の分裂はありません。 ただひとつの継ぎ目のない自発的体験が、思考者/思考・聞き手/音・感受者/感覚として現れるだけなのです。

「I AM」体験――存在の純粋感覚――は忘れがたいほど強烈です。 背景が消えると、あらゆる前景の現象がプレゼンスとして自己をあらわにします。 ただ一つの、継ぎ目のない自発的な体験が、思考者/思考・聞き手/音・感受者/感覚として顕れるだけなのです。 いま・ここで自然に「ヴィパッサナー的」で、ただ裸の気づき。PC のノイズ、電車の振動、足裏が地面に触れる感覚――これらがことごとく水晶のように明晰で、「I AM」に劣らず「I AM」なのです。 プレゼンスはまったく失われていません。 :)

主客の分離はただの思い込みです。 だから、捨てる者も、捨てられる何かも、幻想です。 自己が透き通るほどに、現象もますます光り輝きます。 透徹しきった透明性のうちで、すべての出来事はきわめて明瞭に・生々しく見えています。 どこも明らか、いたるところ生気に満ちています!

そのころには、この事実を覆い隠しているのは深く染みついた二元視だけだと明らかです。 実際の体験には、現象の透明な明晰さの現れ以外、何もありません。 この体験が熟すと、身心は非二元の光明性そのものへと溶け、 すべての現象は、この非二元の明るいプレゼンスの顕現だと体験的に理解されます―― これが「一切は心」という洞見へ導く要点です。

とはいえ、有頂天になることなく、さらに検証を進めましょう。 この非二元の光明性に、独立・不変・常住といった自性の性格は見いだせるでしょうか。 実践者は、知らず知らず非二元のプレゼンスを実体化し、しばらく足止めされることがあります。 これは七段階の第 4 段で述べた「一枚鏡の痕跡」です。 体験が非二元でも、空の洞見はまだ現れていません。 二元の絆は十分に緩んでいても、本質視は根強く残っています。

「主体」が破られると、体験は非二元になりますが、私たちは「客体」を忘れがちです。 客体がさらに空じられると、法身(ダルマカーヤ)が見られます。 「主体」として最初に見抜かれるのは、五蘊を寄せ集めた単なるラベルにすぎません。 次に否定されるべき段階では、空じられるのはラベルではなく、非二元の性質をもつまさにそのプレゼンス自身なのです。

非二元の洞見が熟した仏教徒であれば、なぜ仏陀が縁起をそれほど強調したのか自問するでしょう。 その体験はなおもヴェーダーンタ的で、「梵(ブラフマン)」的であって「空(シューニャター)」的ではありません。 この「非二元プレゼンスの堅固さ」は、縁起と空性の助けによって打ち砕かれねばなりません。 こうして、非二元プレゼンスの「空(相依・無自性)」の性質が理解されます。 これは第一偈の趣旨に即した、無我体験のさらなる洗練です。

「I AMness」の実践者は、非二元の洞見の後、非二元プレゼンスに留まりがちです。 彼らは「薪を割り、水を運ぶ」「春が来れば草自ずから生ず」を悦びとします。 体験は最終のように見えるため、多く強調できることはありません。 願わくは、彼らが見ることを妨げているこの微細な痕跡に気づけるような縁(条件)が生起し成熟しますように。

空について。

思考を観察して、「どこで」「どのように」思考が生じ、「思考」とはどのようなものかを問うなら、 思考の性質は空――鮮やかに現れていながら、まったく捉えられない――と明らかになります。 推論ではなく、全身で「不可得・不可所在」を感じ取ることが重要です。 そこには「どこか」にあるかの印象が生じますが、決して特定できません。 「ここ性」「いま性」もまた、感覚がつくる印象にすぎず、諸縁の集合であって、固有の「そこ」はありません。 それは「自己性」と同じく空です。

この不可得・不可所在の空なる性質は、思考だけの特性ではありません。 あらゆる経験・感覚がそうです――鮮やかに現れていながら、実体なく、掴めず、自発的で、居場所を定められないのです。 たとえば赤い花を見て、その「赤さ」は花に属するように見えますが、実際にはそうではありません。 犬など色覚をもたない動物には赤は現れませんし、心の固有属性でもありません。 量子的な視力で原子構造を覗いても、「赤さ」という属性はどこにもありません。 現れはすべて相依って生じるため、自性・固定的属性・形・色といった固有性は空です―― ただ光り、しかも空、固有の客観的実在なき「ただの現れ」にすぎません。

焼ける火の前に立つとき、「火」全体、焼ける熱、「熱さ」という感覚はあまりに生々しく現れます。 しかし検証すれば、そこに固有の「熱さ」があるわけではありません。 条件が具わるときにかぎって、相依って自ずと現れるのです。 しかし、この見えにくい微細な痕跡――見ることを妨げている印――が見抜かれるための縁(条件)が熟すことを、ただ願うばかりです。

すべての経験は空です。 それは空中の花のようであり、池の面の絵のようです。 体験のどの瞬間を指して「内」だ「外」だと言い立てることはできません。 「内」は「外」と同じく、気づきにとっては継ぎ目ない体験のみがあるのです。 重要なのは鏡(池)ではなく、池の表面に絵がゆらめくという、そのプロセスです。 幻のようでありながら幻ではなく、夢のようでありながら夢ではない―― それがあらゆる体験の地盤です。

しかし不可得・不可所在だけがすべてではありません。 もう一方には「摩訶(マハー)」――境界のない大いなる相互連関の感覚――があります。 誰かが鐘を打つとき、人・棒・鐘・空気の振動・耳、そして不思議に現れる音―― 「トーン……と余韻がひびく」――これはひとつの継ぎ目なき出来事、ひとつの体験なのです。 息をするときも同じです。ただこの全体の呼吸。 宇宙全体がこの呼吸をしているかのように、すべての条件が一体となって立ち現れるのです。 このマハーの意義は言葉を超えています。これなくしては、むしろ、この体験がなければ、非二元は不完全です。

私たちの空なる本性の体験は、非二元の一如の体験とは異なります。 たとえば「距離」は、非二元の一如では主客分割の見破りによって超えられ、ひとつのプレゼンスとなります。 しかし空の体験は、不可得・不可所在の性質によって境界を破るのです。

この性質に深く入り込むとき、「どこ」や「いつ」や「誰」を要しません。 音が聞こえるなら、音は「内」でも「外」でもなく、そこに現れては消えるだけ。 縁起・空の智恵によって、いかなる中心も基準点も溶けます。 「どこで・いつでも、ちょうどそのまま正しい」という感覚が生まれます。 どこも家のように感じられるが、家と呼べる場所はどこにもありません。 プレゼンスの空なる本性を体験するにつれ、非二元プレゼンスが残していた微細な痕跡は溶けます。 それは涼やかです。プレゼンスはいっそう自在で、力みは抜けていきます。 「生々しい非二元のプレゼンス」から、「生々しく非二元に現れているが、何ものでもない、空だ」へ。

マハーと平凡について。 

マハーという体験は、何か特別な体験を追い求めることではありません。 むしろ、空(シューニャター)は本来的にマハーなのだと見ることです。

禅の「平凡」の強調と矛盾するように見えるかもしれません。 しかし平凡とは、非二元とマハーの真如が、これ以上でもこれ以外でもないことを言います。 到達すべき別世界はなく、日常から離れた状態もありません。 むしろこの本初・原初・汚れなき非二元とマハーの体験を、もっとも平凡な行為へ持ち来すことです。 それが日常の大半で見出せないなら、洞見と実践はなお未熟です。 重要なのは鏡でも池でもなく、池の面に絵がゆらめくというそのプロセス――幻のようでありながら幻ではなく、夢のようでありながら夢ではない――なのです。

かつて、マハーは自然状態の中で稀に起こる出来事で、一過性のものと見なしていました。 呼吸や歩行や鐘の音など、一つの対象を短時間繰り返し丁寧に味わう集中によって、マハーを誘発していました。

……しかし非二元のプレゼンスに縁起の見方を取り入れて以来、年を経るごとに、マハーは「より手近なもの」になりました。 そして最近、マハーが自然で努力のいらないものとしてはっきり到来しました。 空において、マハーは自然であり、どの体験にも完全に織り込まれねばならないと直観されました。 とはいえ、マハーを地盤とするには非二元の熟成が求められます。 分断された心のままでは、すべてが自発的に生起してこの刹那の生々しい現前として現れる、その全体的な相互連関をまるごと感じ取ることはできません。

宇宙は、この起こる思考です。 宇宙は、この起こる音です。 ただこの壮麗なる起こり――これが道(タオ)です。 あらゆる起こりに礼拝を。

自然円満について。

これら二つの体験が相互にしみわたるとき、求められるのは、起こるものを開かれたままに・ためらいなく経験することだけです。 簡単に聞こえるでしょうが、この単純な道の深さを侮ってはなりません。 劫にもわたる修行でも触れ得ないほどの深みがあるのです。

実のところ、「第一偈」「第二偈」「空について」の各節には、すでに自然の道への強調があります。 自然なプレゼンス、そして起こるものを開かれたまま・ためらいなく・恐れなく経験することは、いずれの宗派の独占物でもありません。 禅・マハームドラー・ゾクチェン・アドヴァイタ・道家・仏教――いずれの看板にも属さないのです。 誠実な修行者であれば、非二元の体験が熟すにつれ、必ずこの自然の道に至ります。 それは血肉のように自然で、他の道はあり得ないのです。

ただし自然の道は誤解されやすい。 「何もしない」「修行不要」ではありません。 むしろ、無我・空・縁起の洞見を何度も洗練させたのち、 アナッターは印(法印)であって段階ではない、 非二元の光明性と空は、つねに・もともと・すべての体験の「地」であった―― という最深の洞見が明るみになるのです。 そのとき実践は「集中」から「無労」へと転じます。 それには、非二元と空の洞見が、かつて「二元視・本質視」が意識を浸していたのと同じくらい、全存在へとしみとおることが必要です。

いずれにせよ、私たちの空で光る本性を形而上の実体へと仕立て上げないよう注意しましょう。 ここで、別のブログ「Luminous Emptiness」に書いたコメントで締めくくります。 それは本稿の要点をよく要約しています。

「どれほど作為がないか」は、 「どれほどためらいなく・恐れなく、起こるものに開くか」の度合いです。 起こるものすべてが「心」。つねに見られ・聞かれ・味わわれ・経験されています。 見られず・聞かれず・経験されていないもの―― それは、私たちが「心」と思い描く観念にすぎません。

「輝き・清らかさ」を形なき実体として客体化するなら、 それは掴着の対象となり、 「形(フォーム)」――気づきの質感・織物――を見ることを妨げます。 客体化の傾向は微細です。 「自己性」を手放しても、知らぬ間に「いま性」「ここ性」を掴んでしまいます。 起こるものはことごとく、縁って自ずと現れます。「誰が」「どこで」「いつ」を要しません。

すべての経験は平等で、光りながら自性をもたない。 空であっても、その鮮やかな光りを否定しません。 解放とは、心をそのまま経験すること。 自解放とは、「この解放はつねに・もとより・すでにそうであった」と徹底して見抜くこと。 自発に現前し、自然に円満しています。

追伸:空の洞見を非二元の光明性より「高い」と見なしてはなりません。 条件の違いによって、どちらの洞見も先に顕れることがあります。 より概念的な理解のためには、Greg Goode 博士の “Non-Dual Emptiness” を参照してください。

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2020年のアップデート(ソウより)。 本稿に関連する引用をいくつか挙げます。

「自分にとっては無我(アナッタ)の連句こそが、いまだに最良の“引き金”…(笑)。 それによって、無我が自然本来の状態であることをはっきり見ることができます。 それは常にそうであり、そして無努力にそうなのです。 それは、いわゆる『物や現象』の分離や実体性という誤解を、無明がいかに覆い隠し、作り出すのかを示してくれます。」 「そして見解を悟るということは、高みから低みまで一貫して、心がどのように世俗的存在を真で実在だと取り違え混同するのか、すべてこの無我という真理を指し示しています。 縁起と空は、心が作るあらゆる世俗性を釣り合わせ中和する筏であり、それによって心は自然な安らぎと均衡に憩い、すべての生起を自ずから円成したものとして見ます。」— ジョン・タン、2019年

「『アナッタ(無我)』が“段階”ではなく“法印”であるという洞察が起こらねば、『無努力』のモードへとさらに進むことはできません。 つまり、無我はあらゆる体験の地であり、常にそうでありつづけ、私(I)はいません。 見るにおいては、いつでもただ見るのみ。 聞くにおいては、いつでもただ音のみ。 そして思うにおいては、いつでもただ思いのみ。 努力は要らず、いまだかつて『私』がいたことは一度もありませんでした。」— ジョン・タン、2009年

「以下について正しく思索してください: [https://www.awakeningtoreality.com/2021/07/anatta-is-dharma-seal-or-truth-that-is.html](https://www.awakeningtoreality.com/2021/07/anatta-is-dharma-seal-or-truth-that-is.html) と [https://www.awakeningtoreality.com/2022/08/bahiya-sutta-must-be-understood-from.html](https://www.awakeningtoreality.com/2022/08/bahiya-sutta-must-be-understood-from.html) (無我を“法印”として理解するのであって、単なる無心状態としてではない)」— ソウ、2020年 「無我の第一・第二の両連句を徹底的に突破しなければ、AtR の定義における本来の無我の徹底・明解な悟りはありません。 2010年10月の最初の突破では第二が私にはより明瞭でしたが、その後の数か月で第一連句も次第に明瞭となり、さらなる基盤の解体が進みました。 そこには“ここ/今”へのきわめて微細な基盤づけや、心への微かな参照さえも含まれていました(それらはすでに大方は解けていましたが、見えにくい微細な傾向が後に見抜かれ、解消されました)。」— ソウ、2020年

「TD Unmanifest 3時間前 · 私の実践では、客体を空じることよりも、主体を空じることの方が“容易”だと感じてきました。 つまり AtR の言い回しでは、第二連句より第一連句に取り組むことです。 蘊と界の空性を観ずることは、無我の悟りを深める上で非常に役立ちました。 残余の『私・我・わがもの』に潜む業習気を根こそぎにするために働いています。 しかし、第二連句とプレゼンス、縁起、そして空から“全力作用”へと関連づけられる、客体に対する同種の透徹を助けた実践について興味があります。 4件のコメント コメント」

ソウ・ウェイ・ユー バッジ・アイコン 「無我の両連句は無我に関するものであって、蘊の空性そのものではありません」 1

TD Unmanifest 「ああ、私は第二連句に関するこの節を、蘊や対象に焦点を当てたものだと誤解していました: 『“主体”が消えると、体験は非二元となるが、私たちは“客体”のことを忘れている。 客体がさらに空じられると、法身(ダルマカーヤ)が見えてくる。 “まず主体”の貫通の場合、それは五蘊を寄せ集めた単なるラベルにすぎないが、次の段階で否定されるべきなのはプレゼンスである——それはラベルではなく、非二元的な性格をもつまさにそのプレゼンスだ』。 私は主客の観点から熟考しており、とてもよく進展して無我を深めてきました。 ですから自己/自己(Self)はどこにも見いだせず、常にすでにそうなのです。 しかし意識の対象は、明らかに“自己”ではない一方で、“実在的”に見えることがあります。 それはただ蘊などにすぎません。」

ソウ・ウェイ・ユー 「それは、無我の洞察をあらゆる法に適用することを促すリマインダーです。 両連句は自己/自己(Self)の錯覚を標的にしています。 しかし、その後にこの洞察を一切法へと適用して、二重の空(人無我と法無我)を悟らねばなりません。 たとえば、『吹くことのほかに風はない( [https://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/08/the-wind-is-blowing.html](https://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/08/the-wind-is-blowing.html) )』という無我の洞察は、その後すべての法——運動を含め——へと適用されねばなりません。」 2011年:「私は、最初の偈と第二の偈は、真の無我の洞見に向けて、出発点においてさえ相携えるべきだと述べている。 あなたは無我におけるこの二側面の洞見を備えねばならない。 では無我とは何か。 行為主体の不在を貫いて見抜くとき、あなたはまさに直接の洞見を育んでおり、余計な何かを実体化しているのではない。 それは如実への直接洞見である。 だからこそ「自己」を見るとき、そこには五蘊以外のものは何もないと見え、「天候」を見るとき、そこには移ろう雲や雨だけがあり、「身体」を見るとき、そこには変化し続ける感受があり、「音」を聞くとき、あなたは縁起(DO)を見る——すると二重の空性が単一の洞見にほかならず、なぜそれが一合相(yíhéxiàng;一つの総合的現れ)へと至るのかが見えてくる。

もし洞見がなく、ただ言葉に執着するなら、本質を逸しているのだ。 つまり、二つの偈における洞見の獲得は、「自己」のことだけを考えるためではない。」 — ジョン・タン、2011年。 会話 — 2020年7月27日。

ジョン・タンは言った、「私にとって、主語‐動作‐目的語というのは、世界を語り、意味づけるための助けとなる枠組みにすぎない。 私は世界をそのようには見ない。 私には、それは『現れ‐条件』の全力発揮(総働)として見えるのであって、『現れ と 条件』という二項ではない。」

ソー・ウェイユーは言った、「TD Unmanifest の話に触れているのですか?」 ジョン・タンは言った、「そうだ。 もしあなたが客体を主体から切り離して見たり、諸法を心から隔てて見たりしているなら、どれほど解体しても、それは単なる知識にとどまる。 何ものかの直接の味わいに到ることはないだろう。」 ソー・ウェイユーは言った、「しかし、すべての条件が現れているわけではありませんよね。見えないまま直観されたり推量されたりする条件もあり、それらは単に世俗的なものにすぎません。」

ジョン・タンは言った、「もちろんだ。関与する条件をすべて知る術はない。 ここで言いたいのは、現れというものはただ現前するだけではない、ということだ。」

ジョン・タンは言った、「そして、主体と客体の双方を解体していく過程を通るとき、『広がり』の体験もまたある……その体験は『身心脱落』のようだ。」 (以下、会話は次パートへ続く。)

「音しかない。」 ジオヴァニ・ジオはこう書いた。 私たちは音を聞く。 即座に、深く刷り込まれた条件づけは「聴く(聴覚)」だと言う。 しかしそこには誤謬がある。 あるのはただ音だけだ。 究極的には、聞き手も、聞くという行為もない。 他のすべての感覚についても同様である。 中心化された、拡張された、あるいは零次元の固有の知覚者や「アウェアラー」は錯覚である。 thusness/ジョン・タン: とても良い。 これは二つの偈の両方が明晰であることを意味する。 聞くことにおいて、聞き手はいない。 聞くことにおいて、ただ音だけがある。 聞くという行為もない。

ジョン・タンは二〇二二年にこう書いた。 「……思考の重さ――第一部」 熟考するとき、熟考を単なる思考上の推論練習に留めてはならない。 たとえば、こうである。 現れるものは「内」でも「外」でもない。 「内なること」という観念は「外なること」という観念に依存しているからであり、どちらもなければ「どちらでもない」という感覚は起こりえない。 それゆえ両者はいずれも単なる慣習であり、依存して起こる。 熟考をこの水準に留めてはならない。 そうしてしまうと、自由はせいぜい精神的な水準にしか残らない――ただ透明で清澄で清潔な状態にすぎない。 それは生の注意を実践するのと何ら変わらないが、概念がいかに心を増殖させるかという洞察は起こりうる。 しかし、さらに一歩進めて、私たちの感覚、思考、匂い、色、味、音に直接関係づけ、こう問うべきである。 「『思考は頭の内でも外でもない』とはどういう意味か。」 これを見抜くことは、はるかに貫徹的である。 それは、実時間の生きられた経験として、深い虚幻性と神秘的な畏れをもたらす。

「……思考の重さ――第二部」 思考はどれほど重いのか。 その根はどこにあるのか。 霊性の世界では、「『私』はただの思考にすぎない」とか「思考は空で広々としており、重さも根もない」といった言い回しがよく聞かれる。 「思考」の根無し性や空間のような性質が指摘されるべきなのは確かだが、だからといって人は何かを見抜いたと誤解してはならないし、ましてや「私/わがもの」「身体/心」「空間/時間」などの深く根を張った概念的観念を抜き取ったなどとは到底言えない。 それゆえ、コインの裏面にも同様に重点を置かねばならない。 「思考」は驚くほど重い――まるでブラックホールのように(ピンホールほどの大きさで、星ほどの重さ)。 それらが運ぶ概念的観念の「根」は私たちの全存在を貫き、到るところに浸透している。 思考の「根」はどこにも見出されないということは、そこらじゅうどこにでも、あらゆるところに見出されうるということでもある。 それは三時と十方――現代的に言えば、多元宇宙の異なるタイムラインにわたって広がっている。 言い換えれば、「これが起これば、あれが起こる」である。

無我において、私たちは自己を心的構成として見抜き、自己から一切の法、そしてそれらのあいだの関係に至るまで、すべての心的構成から自らを解放する脱構築の旅へと踏み出す。 しかし、縁起を見るとき、何も排除されない。 概念化は残り、部分は残り、因果は残り、自己は残り、他者も残る――すべてが残る。 ただし、「本質がある」という誤った見解だけが放下される。 それらを実体的に存在すると見る代わりに、いまやそれらは依存して起こるのだと理解される。 そして、依存して起こるものは何であれ、四対の両極(すなわちナーガールジュナの八不)から自由である。 縁起と空を理解しなければ、あらゆる戯論から自由な自然成就は歪められてしまう。

また参照: https://www.awakeningtoreality.com/2013/04/daniel-post-on-anattaemptiness.html (注:そこには空の二つの相が表明されている。あなたはそれを見分けられるだろうか。)

ジョン・タンはさらにこう書いた。 「あなたが無主体・無基底の見解について語るとき、実体論的レンズからではなく、非実体論的観点から、その論理的含意を明確にしなければならない。 体験を強調し過ぎ、それを支える健全な論理的基盤を欠くことは、現代世界においては重大な妨げである。 そのようでは、自己を開いていく上で、あなたは大して先へ進めないだろう。 つまり、現れるものがもしこうであるなら、そうであることは成り立たない、というかたちで明晰に見なければならないのであって、空や無自性を公理のようにただ受け取ってはならない。 信仰によってではなく、非の打ちどころのない論理によって理解し、それを実際の経験で裏づけるまで、あなたのあらゆる経験とあらゆる論理を調べ尽くしなさい。 そのとき、心は自らを解き放つ。」

さらなる空の探究のためにこの文章を読んだあとには、次のリンク内のすべての内容を読み、そこにリンクされた他の記事すべてにも目を通して熟考することを、私は強く勧める。 Compilation of Post Anatta Advise

―― 二〇二四年、ソーによる更新。 エネルギーの不均衡を避ける: https://www.awakeningtoreality.com/2024/02/avoiding-energy-imbalances.html ソー: みなさんへの重要なメッセージ。 無我の二つの偈は、次の内容に結びついている: https://www.awakeningtoreality.com/2021/06/pellucid-no-self-non-doership.html [午後八時四十分、二〇二一年六月九日]ジョン・タン:一、ゾクチェンには「自ずからの顕現(spontaneous presence)」という語がある。 私はゾクチェンにおける正確な意味は知らないが、この語は二つの偈の二つの経験と親密に結びついている。

一、無為の主体なきこと=自ずからの顕れ(spontaneous)。 二、ただ現前するものそのものがプレゼンスであること。 私が両側面について書いたのは次の記事で確認できる: https://www.awakeningtoreality.com/2021/04/why-awakening-is-so-worth-it.html 第二偈(mere appearances as Presence)の洞察を悟らなければ、AtRにおいては真正の無我の悟りとは見なされない。 関連: https://www.awakeningtoreality.com/2021/06/pellucid-no-self-non-doership.html https://www.awakeningtoreality.com/2009/03/on-anatta-emptiness-and-spontaneous.html https://www.awakeningtoreality.com/2021/06/pellucid-no-self-non-doership.html http://awakeningtoreality.blogspot.com/2018/07/i-was-having-conversation-with-someone.html https://www.awakeningtoreality.com/2019/02/the-transient-universe-has-heart.html https://www.awakeningtoreality.com/2023/05/nice-advice-and-expression-of-anatta-in.html 私はまた、無我を悟ったと主張する人の九割九分は、実際には非行為・無為(non-doership)の側面だけで、真正の非二元的無我の体験や洞察には至っていない、と述べたことがある。 さらに、私(ソー)はかつてジョン・タンに、ある教師が無我を悟っていると思うか尋ねたが、ジョンはこう答えた。 「自身の光明の真正性の確認がなく、現れを自らの光明として認識した跡もなく、慣習的構成(ソー:がどのように見抜かれて手放されるか)についての明確な指摘もない。 それで、どうしてその結論に至れるのか。」 また、ある教師の文章にコメントしてジョン・タンはこう書いた。 「『心は大地なり』と言うとき、第一歩は、先へ進む前に心とは何かを理解し味わうことである。 教えが『心とは何か』を教示し味わわせないなら、それは美辞麗句と大言壮語にすぎない。 次に『大地』とは何かを指摘しなければならない。 この『大地』はどこにあるのか。 土壌か、地面か、花か、空気か、建物か、それとも慣習的世界なのか。 それから彼らの言う『全体発揮(total exertion)』とは何かを語るがよい。 そのうえで、心と全体発揮の統合――それが+Aである。」

しかし、第二偈が第一偈より重要だという意味ではない。 第二偈の悟り――主客・能作所作の枠組みを超えた、あらゆる現れとしての澄みきった光明――ののちには、第一偈を深く徹底して貫くことが肝要である。 ジョン・タンが言うように、[無我の後]つねにプレゼンスを強調するのではなく、その光明の本性を強調すべきである。 同様に、他者に無我を語るときも、ただ光明を語るのではなく、非行為(non-doership)をも語らなければならない。 すべては行為者も作者もなく自ら起こる――呼吸や心臓の鼓動ほどに自然に。 これを徹底的に見抜くことで、完全に自ずから・無為となり、くつろぎが生じる。 自然の光明は完全に無努力であり、必要とされる努力はゼロである。 無我と空の深い洞察に運ばせて自己解脱と自然成就へと進み、努力という病と、光明への微細な過集中や執着を溶かしなさい。 かつてジョン・タンは、光明への過度な偏重は避けるべきであり、第一偈(非行為)で補完されねばならないと述べた。 彼は付け加えて、非二元ののちの修行は、開放的で安らぎがあり、実体視から自由であるべきだ――自然に、開かれ、軽やかに、力まず、無為であり、そして無努力そのものを観照せよ、と言う。 この開放と弛緩は、修行において次第に一つのモメンタム(勢い)となって蓄積されるべきである。 さらにジョンは、非行為と全体発揮の関係を理解することが必要だと言う――全体の諸縁がそのまま発揮されることを許容するのである。 片面から見れば、それは光明の完全な「無努力」であり、もう片面から見れば、条件の全体が発揮されることである。 Satsang Nathan の動画は、無我の非行為的側面の良い表現である。 参照:Satsang Nathan Videos

以前にジョン・タンはこうも警告している。「将来の問題を防ぐためには、空性あるいは無能作性(エージェント不在)に非常に深く貫入しなければならない。 つまり、本当に自己感を乗り越えなければならないということだ。 さもなければ、人生の後半で問題が起こる。 少なくとも無能作の状態に至るまで、主観的な気づきとしての自己感が十分に脱構築されるまで、修行しなければならない。 そうでなければ、それ以上は先へ進めない。 もしそうしなければ、後になって、[激しいエネルギー不均衡を経験した誰か]が通ったものよりも悪い問題に直面することになるかもしれない。 Actual Freedom コミュニティのリチャードについて私が話したことを覚えているだろうか?」

「非行為(ノン・ドゥアシップ)と空性に焦点を当てなさい。 そうして、あなたの身心全体が、自動的な解放(リリース)の強いモメンタムを育むまで続けなさい。 そのためには、『本質(エッセンス)』という見方をひっくり返し、身体と心が自らの条件づけを解けるようにすることが必要だ。 空性がいかに解放するかについての強固で安定した明晰さの支えなしに体験だけに集中すると、プレゼンスの強度があまりにも強くなり、後になって対処できなくなる。」

強調しておくと、上で述べたようなモメンタムを修行の中で築くことは極めて重要である。 ジョン・タンの言葉を言い換えれば、「一定のモメンタムが築かれるまでは、規則的に修行し、見かけ倒しの“知恵”に走るのは控えなさい。 そうして初めて、Xの問題に関わる困難を克服できると期待できる。 私の助言は真剣だ。 あなたはまだこれらの問題を身をもって経験していないが、いずれ経験したとき、この技芸を身につけることの重要性が分かるだろう。」

もし瞑想を一貫して実践すれば、開かれていくことにも日常生活にも、やがてモメンタムが生じる。 困難が起こったとしても、落ち着いていられ、そのモメンタムに導かせることができれば、あなたはそれらを乗り越えられると気づくだろう。

それは手放しの技法に似ているが、効果的に言語化するのはなかなか難しい。 私たちの生来の傾向は、たとえ自分では違うと思い込もうとしても、執着のほうへ傾く。 だからこそ、一貫した実践が不可欠なのだ。

一日中、あらゆる戯論からの自由や本来の自然な状態や音について語り続けることもできるし、いくらかの洞察を得ることもあるだろう。 しかし、さまざまな理由でこれらの問題に直面すると、あなたのあらゆる執着が前面化する。

死や健康、個人的な異常に関する恐れが立ち上がる。 心はそれらの執着を手放すのに苦労するだろう。」

ジョン・タンはまた以前、Xにこうも伝えた。「あなたには善いカルマがある……ただくつろぎ、無自性が同時に無努力を意味することを理解しなさい。 フォーカスせず、集中しないこと。 無我の洞察の後に、現れが自己の光明(ラディアンス)であるという見方と理解を、ただ洗練していきなさい。」

さらにジョンは私たちの友人Xに書いた。「克服できる。 私も、I AM の後に、過度のフォーカスのせいで、非常に激しいエネルギーの乱れ(エネルギー不均衡)を経験したことがある。 現在のところ私は、まず気晴らしや注意の切り替えを通じて、身体と心を落ち着かせるのがよいと思っている……身体と心は非常に微細なレベルではとても敏感で、隠れた恐れが全体の均衡を揺さぶってしまう。 薬は助けになるし、あなたも用いるべきだと思う。 私たちは非常に注意深くあらねばならない。 心を弛める仕方には、かえって覚醒度が増すものもあれば、煩悩(例えば恐れ)を克服することで心を平安へと鎮めていくものもある。 後者の状態にあるとき、私たちは休み、諸条件にバランスよく応じることができる。」

ジョンは以前、私にもこう書いている。「まず『無努力』に焦点を合わせなさい。 そののち、手放しが進めば、思考を手放し、起こることを、起こるままの起こりとして任せることができる。 ただし後になって『集中できない』と感じるかもしれない——それでよい。 ゆっくり穏やかに、現れは自己の光明であることを想い起こしなさい。 それゆえ光明は本性として努力を超えている……まずはそれに慣れなさい。 どんな現れも、本性として自ずから解放される。」

もしこの側面で洞察と実践が成熟しておらず、それでいて光明が強まり、しかも微妙にその光明へ過度にフォーカスしてしまうと、痛ましいエネルギー不均衡に見舞われる危険がある。 それは眉間のチャクラにエネルギーが滞ること、深刻な緊張、頭痛、不眠(文字どおり夜間の睡眠がゼロで、夜通しの超意識状態——それを成就と誤解する人もいる)、さらにはパニック発作のように感じられるエネルギーの波(“感じられる”と言うのは、精神的な恐れというより身体的な恐れで、非常に緊張した「神経質な」身体感覚として現れる)などへとつながり、さらに悪い症状が出ることさえある。 私自身、2019年に7日間、そのような不快な出来事を経験した(詳細は https://www.awakeningtoreality.com/2019/03/the-magical-fairytale-like-wonderland.html を参照)。 これは医師には治せない「禅病」につながることがあり、私は元の AtR ガイドの全一章をこの主題に充てた。 私は実践の転換によって、その後はこうしたエピソードを再発させずに済んでいるが、似た経験をする人たちを見てきた。 だからこそ、人々が実践で誤った方向へ進まないことを、心から願っている。 どうか気をつけて、よく実践してほしい。

もしゾクチェン(Dzogchen)に関心があるなら、ゾクチェン教師アーチャーリヤ・マルコム・スミス(Acarya Malcolm Smith)師から伝法と教授を受けるとよい(彼もまた、無我における非行為の側面と、現れの光明の無努力性、そして二つの無我の偈の統合を強調している——これは公の著作ではなく、私が受講した購読者向けオンライン教授の中での強調点である)。 そして『The Supreme Source』という書籍を入手するとよい。 その書は、全的プレゼンスの、自ずから完全で、全くの無努力性を明確に説いている。 ただし決して「自己流ゾクチェン」はしないこと。 それは極めて誤解を招く。 むしろその伝統の良師(例:アーチャーリヤ・マルコム)を見つけるべきだ。 シム・パーン・チョンが AtR グループで勧めてくれた、アーチャーリヤ・マルコムのゾクチェン教法の入門としての YouTube 動画(強く推奨): https://www.awakeningtoreality.com/2023/09/talk-on-buddhahood-in-this-life.html また、マルコムの文章の一部はここにもある: https://www.awakeningtoreality.com/2014/02/clarifications-on-dharmakaya-and-basis_16.html 『The Supreme Source』を実修するには、許可(empowerment)と直指(direct introduction)、そして有資格のゾクチェン師からの導きが必要である。 それは断じて、だらけて修行しないことでもなければ、ネオ・アドヴァイタの虚無主義でもない。 その実例: https://dharmaconnectiongroup.blogspot.com/2015/08/ground-path-fruition_13.html

ジョン・タンが共有してくれた良い動画がある。 心・注意・エネルギー・フォーカスは一つである。 実践において、特に気づきの実践者が、集中型のやり方をすると、エネルギー不均衡に至りやすく、エネルギーが眉間に滞る。 気づき系の実践者には非常に一般的であり、眉間、あるいはときにハート・チャクラのブロッケージとして現れる。 しかし無我(anātman)の洞察それ自体は非常に安全であり、無我が十分に現証され尽くしたところでは、エネルギー不均衡は起こりえない。 エネルギー不均衡はすべて、微細な自己化(セルフィング)に結びついている。 だからこそ、二つの無我の偈(第二偈に偏らない)の完全な成熟と現証が、エネルギー不均衡を解消する。

したがって、あなたの実践では、心を丹田(dantien)に据えるべきだ。 エネルギーは頭部に滞らず、流れるべきである。 ソマティック(身体志向)であることは、エネルギー不均衡の克服に役立つ。 壺呼吸(Vase Breathing)を見よ。

[2020年9月5日 11:46 AM]ジョン・タン:「彼(フランク)の記述は気に入っている。 なかなか良いが、エネルギー不均衡につながる可能性がある。 最善は、呼吸法を実践し、エネルギーを静けさへと調整する術を学ぶことだ……」

ソウによるコメント: 呼吸法によってエネルギーを整える一つの良い方法は、壺呼吸を実践することだ。 ここにツォクニ・リンポチェ著『Open Mind, Open Heart』からの抜粋を示す。 「壺呼吸(Vase Breathing) この女性をはじめ数え切れない人々が情動に対処できるよう助けた方法の一つは、lung(風)の中心、すなわち『本来の居場所』に戻すのを助ける実践である。 そのために、私たちは特別な呼吸技法を道具として用いる。 なぜなら、呼吸は、lung の微細な風エネルギーに対応する物理的な相関だからだ。 この技法は壺呼吸と呼ばれ、ヨーガや他のさまざまなクラスで教えられる横隔膜呼吸よりもさらに深く息を吸い込む。 手順自体はかなり単純である。 まず、腹筋を可能な限り背骨に近づけるように収縮させながら、ゆっくり完全に息を吐き切る。 そしてゆっくり吸い込む際、臍の下およそ四指幅、恥骨のすぐ上あたりの領域に息を引き下ろすと想像する。 この領域は壺に似た形をしているため、この技法は壺呼吸と呼ばれる。 もちろん実際に息がその部位へ降りていくわけではないが、注意をそこへ向けることで、ふだんよりいくらか深く吸い込み、その壺領域の膨らみもいくらか感じられるだろう。 息を吸い続け、注意を下へと向け続けると、lung は次第にそこへ向かって移動し、そこで憩い始める。 壺の領域で数秒だけ息を止める——吐き出したい衝動が切迫するまで待たず、次にゆっくりと再び吐き出す。 このように、完全に息を吐き、壺領域へ吸い下ろす呼吸を三回か四回、ゆっくり行う。 三回目か四回目の吸気の後、今度は呼気の終わりに、息のほんの少し——およそ一〇パーセント——を壺領域に保つことを試みる。 その際、lung が本来の居場所に少し留まるよう、軽くやさしく焦点を保つ。 では今、試してみよう。 完全に息を吐き、その後、三回から四回、ゆっくりやさしく壺領域へと息を吸い下ろす。 そして最後の呼気で、息の一部を壺領域に保つ。 これをおよそ十分間続ける。 どのように感じられただろうか。 少し不快だったかもしれない。 このように呼吸を導くのは難しい、と言う人もいる。 逆に、これによって、これまで感じたことのない落ち着きと中心感覚を得られた、と言う人もいる。 壺呼吸を、毎日一〇分あるいは二〇分実践すれば、私たちが日々の活動に従事している最中でも、自分の感情への気づきを培い、それに取り組む方法を学ぶ、直接的な手段となりうる。 lung がその本来の居場所に中心化すると、身体と感情と考えは次第に健全なバランスを取り戻す。 馬と騎手が非常にゆるやかで容易なかたちで協働し、どちらも主導権を握ろうとも、相手を狂わせようともしない。 その過程で、恐れ・痛み・不安・怒り・落ち着きのなさ等に関係する微細身体のパターンが徐々にゆるみ、心と感情のあいだにわずかなスペースが現れる。 究極の目標は、歩く・話す・食べる・飲む・運転するなど、日中のあらゆる活動の間じゅう、壺領域にそのわずかな息を保てるようになることである。 人によっては、わずかな期間の実践の後に、この能力が自動的に身につく。 別の人には、もう少し時間が必要かもしれない。 私は告白しなければならないが、何年も実践してきた今でも、ときどき本来の拠点とのつながりを失うことがある。 特に、とてもスピーディーな人たちに会うときにはそうだ。 私自身もややスピーディーなタイプで、他のスピーディーな人たちに会うことは、一種の微細身体の刺激として働く。 彼らの落ち着きのなさと居所を失ったエネルギーに巻き込まれ、その結果、いくらか落ち着きがなく、神経質で、ときに不安になる。 そこで私は“想起の呼吸”を一息入れる。 つまり、完全に息を吐き、壺領域へと息を吸い下ろし、そしてもう一度吐く際に、lung の息を少しだけ(わずか)本来の居場所に残すのだ。」

ジョン・タンはまたこう言った。 「エネルギー不均衡は、私たちが通常『物理的』と呼ぶものに非常に関係している。 霊性におけるエネルギーは、現代の慣用における『物理的』側面にあたる。 ただ言葉遣いが違うだけだ。 だから運動し、開放性と無努力の技法を学び、身体を開き、実際的で誠実であれ。 壺呼吸のような呼吸法はすべて良いが、規律・持続・忍耐が必要であって、三分钟热度(“三分だけ熱い”=三日坊主)ではいけない。 魔法やお伽話のような心構え抜きに、精進して実践すれば、必ず益をもたらす。」

「会話 — 2020年6月29日」 ジョン・タン:「フランクは非常に体験的だ。 今は空性や現象の不生に、あまり理論的に入り込む必要はない。 むしろ、彼がエネルギーと光明を身体へ——全身へ——動かせるようにしてやることだ。 背景は消えているとしても、六根が等しく光明だと思うかもしれないが、実時間では全くそうではなく、それがあらゆるエネルギー不均衡を引き起こす。 自然な状態へとくつろぎ、全身にわたるエネルギー的光明を感じなさい。 思考によってではない。 何でも触れ、つま先に触れ、脚に触れ、感じなさい。 それはあなたの心だ……(笑)……それが分かるかい? 山は心、草は心、すべてが心だ。 それは視覚と精神作用を通じてもそうだが、身体・つま先・指を感じ、触れなさい。 それらは心だ。 実時間でそれが分かるかい? 睡眠については、あまり心配しないこと。 いずれ起こる。 思考を減らし、全身を思考ではなく触覚の感覚として保ち、感じ、触れなさい。 『一切唯心・無我』の洞察が起こったからといって、すでに『一切唯心』に達したと考えてはならない。 もし万物を心として抱擁し感じることができないなら、心という共通項を捨て去って、無心——無我の自然な状態——へどうやって入るのか?」

ラベル:無我、エネルギー |

注記:うつ病や不安、トラウマに関わる深刻なエネルギー不均衡は、精神科医や心理士といった専門家の助けを得て、必要に応じて薬物療法の支援を受けて対処すべきである。 近代医学は癒しの重要な一部となりうるものであり、決して軽視してはならない。 もしこれらに関連する症状が見られるなら、専門家による診察を受けるべきである。

2019年にソウが7日間経験したエネルギー不均衡のケースでは、抑うつ気分や悲哀、精神的不安(身体的緊張の感覚を除く)はなかったため精神的問題に起因するものではなく、またトラウマにも関連しなかった。 むしろ、それは光明の極端な強度——昼夜を通じて持続する強度——と、過度のフォーカスと緊張というエネルギー・パターン(解けにくい)によるものだった。 それでも、もし自分で判断がつかないなら、検査を受けるほうがよい。 さらに、Judith Blackstone の書籍はトラウマ解放を深く扱い、非二元の実践と関連づけている(厳密には無我の実践に基づくわけではないが、読む価値はある)。 参照: https://www.awakeningtoreality.com/2024/06/good-book-on-healing-trauma-and-nondual.html

ジョン・タンはまた言った。「仕事や外見、家族の支えの欠如などに起因する抑うつと、例えば『I AM』に関わる問題とのあいだには大きな違いがある。 外見や仕事量、学業などに関わる不安は、それぞれの問題が解決されれば次第に解けていく。 しかし『I AM』のように、第一即時の思考として、あまりにも近く、あまりにも即時に現れる事柄は、取り除くのが容易ではない。」

「(エネルギー不均衡の)いくつかは、身体が準備できていない段階で特定のエネルギーの門が開くことに関連している場合もある。」

会話 — 2024年6月6日。 ジョン・タンは言った。「そうだ。 世俗的な達成が実践を妨げないようにしなさい。 そして、無我は単なる始まりにすぎない。 いったん現れを自己の光輝として認識したなら、心と法の双方を徹底して尽くし切らねばならない。 私はゾクチェンやマハームドラーの実践者ではないが、無我を完全に現証する自然の状態は、虹の身体のような結果にも非常に近いと理解し直観できる。」 ソウ・ウェイ・ユー:「なるほど……。」 ジョン・タン:「実のところ、心の実体化をある程度まで尽くし終えると、私たちは世俗的なことに執着しにくくなり、全身心を光の輝きへと尽くす方向に非常に強く引かれていく。 他の人については分からないが、私にはそう起こる。 あなたにも起こるだろうか。」 ソウ・ウェイ・ユー:「はい、そう思います。」 ジョン・タン:「この段階では、無努力・無為・非抵抗が極めて鍵となる。 心が反応したり焦点化したりするたびに、エネルギーは強まり、しばしばエネルギー不均衡へとつながるからだ。」


ラベル:無我、空、ジョン・タン、光明、マハ、ノンデュアル、自ずからの顕現(Spontaneous Presence) |
Soh

https://www.reddit.com/r/Buddhism/comments/1oc0zx7/is_nirvana_truly_the_ending_of_rebirth_or_the/

11h ago

R41NBOWRUMP3R


Is Nirvana truly the ending of rebirth or the understanding that rebirth was not happening to begin with?

Question

Been desperately trying to get some conceptual grasp on samsara and rebirth for a while now.


I’ve seen folks try to scientificate it by relating it to atoms in your body becoming a tree later on


I’ve seen it related back to karma as in rebirth is the collective consequences with made you and which you added to continuing on


I’ve seen it described in countless other ways


What all these descriptions seem to lack, in my eyes, is a compatibility with being ended


If it’s just an ‘energy continuing on in absence of a body’ then how does insight END that? My body won’t just disappear once I realize my Buddha nature


So is salvation actually just insight into anatta? Thus, if I truly understand anatta, I will subsequently understand my misconceptions about rebirth previously, recognize that rebirth isn’t compatible with no self, and at that point escape it? Realizing it was never there to begin with?


I’m willing to just continue the practice with an expectation that I might one day understand, I just wanted to vocalize my problem that every explanation I have seen for samsara and rebirth has been wholly incompatible with the concept of escaping said process. Curious what others think about that.


Edit: thank you all for your replies and discussions, I appreciate it all and it’s helped me formulate my next steps in research and practice. I hope I never came off argumentative, it was just my method to try to understand. Thanks again.



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u/xabir avatar

xabir

10h ago

An intellectual understanding of no-self or anatman is far from the experiential realization of it. But even the experiential realization only marks the beginning of the path to liberation from samsara. It is the attainment of stream entry, in which Buddha gave the assurance that one will attain liberation from samsara within seven more lifetimes (or this very life if one is diligent in practice).


On what stream entry entails, see: https://www.reddit.com/r/streamentry/comments/igored/insight_buddhism_a_reconsideration_of_the_meaning/


No-self is completely compatible with rebirth.


Rizenfenix wrote:


“Continuing consciousness after death is, in most religions, a matter of revealed truth. In Buddhism, the evidence comes from the contemplative experience of people who are certainly not ordinary but who are sufficiently numerous that what they say about it is worth taking seriously into account. Indeed, such testimonies begin with those of the Buddha himself.


Nevertheless, it’s important to understand that what’s called reincarnation in Buddhism has nothing to do with the transmigration of some ‘entity’ or other. It’s not a process of metempsychosis because there is no ‘soul’. As long as one thinks in terms of entities rather than function and continuity, it’s impossible to understand the Buddhist concept of rebirth. As it’s said, ‘There is no thread passing through the beads of the necklace of rebirths.’ Over successive rebirths, what is maintained is not the identity of a ‘person’, but the conditioning of a stream of consciousness.


Additionally, Buddhism speaks of successive states of existence; in other words, everything isn’t limited to just one lifetime. We’ve experienced other states of existence before our birth in this lifetime, and we’ll experience others after death. This, of course, leads to a fundamental question: is there a nonmaterial consciousness distinct from the body? It would be virtually impossible to talk about reincarnation without first examining the relationship between body and mind. Moreover, since Buddhism denies the existence of any self that could be seen as a separate entity capable of transmigrating from one existence to another by passing from one body to another, one might well wonder what it could be that links those successive states of existence together.


One could possibly understand it better by considering it as a continuum, a stream of consciousness that continues to flow without there being any fixed or autonomous entity running through it… Rather it could be likened to a river without a boat, or to a lamp flame that lights a second lamp, which in-turn lights a third lamp, and so on and so forth; the flame at the end of the process is neither the same flame as at the outset, nor a completely different one…”




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u/R41NBOWRUMP3R avatar

R41NBOWRUMP3R

OP

10h ago

This gets to the heart of my question though. You’ve provided a great concept of what not self really is getting at, or a possibility thereof. However it doesn’t seem compatible with liberation?


If the continuing essence is a stream of consciousness, what then is the escape FROM? Where is that stream wandering off to in order to be eternally free of suffering? A judeo Christian heaven? Orrrrrr




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u/xabir avatar

xabir

10h ago

Anatman rejects an “essence”, there is no entity but just a stream of consciousness.


Dzogchen teacher Acarya Malcolm Smith said before, “Malcolm wrote: Omniscience is the content of a mind freed of afflictions. Even the continuum of a Buddha has a relative ground, i.e. a the rosary or string of moments of clarity is beginingless.


Origination from self is axiomatically negated in Buddhadharma,


Each moment in the continuum of a knowing clarity is neither the same as nor different than the previous moment. Hence the cause of a given instant of a knowing clarity cannot be construed to be itself nor can it be construed to be other than itself. This is the only version of causation which, in the final analysis, Buddhadharma can admit to on a relative level. It is the logical consequence of the Buddha's insight, "When this exists, that exists, with the arising of that, this arose." “


Even this stream of consciousness never ceases after liberation or Buddhahood, but it is transformed or purified (of delusion and afflictions) into its pure modality of jnana/wisdom.


This is also what Nirvana is - not a place or destination like some sort of heaven, but the end of afflictions.


Wrote this in Reddit years ago regarding anatman (no self) and nirvana:


https://www.reddit.com/r/Buddhism/comments/2xuq7b/is_nirvana_basically_nonexistence/cp3k7c2/


“Nirvana is simply the cessation of craving, aggression, and delusion. Delusion includes the construct of self, that I exist, that I am the perceiver or controller of experiences and actions. Nirvana is not annihilation because what ends is simply a process of delusional I-making and mine-making and other related mental afflictions, it is not the annihilation of some actual self (which never existed).


Nirvana is when, in seeing the seen, it's realized and experienced that there is simply that scenery, and no seer. No you in terms of that. In hearing sound, there's simply (always already) only sound, no hearer. In thinking... only thought, no thinker. When this is realized, not merely intellectualized, and directly experienced as being so, and all sense of self are being released, then that is Nirvana. This is peace, bliss, freedom from suffering. It is not boring: in fact, boredom only exist when there is a sense of self, and a sense of dissatisfaction with what is present, therefore a craving for something to be 'better than what is'. There is a subject and object here: 'I' want 'something better out there'. But when anatta is realized and actualized, there is no sense of self, there is no subject and object, no dichotomy of perceiver and perceived, and everything is just lucid and luminous and blissful and perfect as it is. Nirvana is also the cessation of craving.


(For more information check out Bahiya Sutta)


Also Buddha teaches that we have past lives and future lifetimes, but if you attain Nirvana, you are no longer stuck in this cycle of samsaric rebirth and suffering.


Mahayana Buddhists then say the Buddhas continue to emanate out of compassion to guide suffering beings out of samsara.


....


Also, for a much longer, detailed, accurate explanation with multiple scriptural citations on Anatman (no self) and Nirvana, please read this well written writing by Geoff: http://www.awakeningtoreality.com/2012/09/great-resource-of-buddha-teachings.html “


Likewise there is a good post by Krodha recently: In chapter 2, sections 69 through 80, The Suvarṇaprabhāsottamasūtra says: Noble ones, the bodhisattva mahāsattvas know through these ten qualities that the Tathāgata Arhat Samyaksaṃbuddha correctly and truly teaches that there is a great passing into nirvāṇa. What are these ten? First, nirvāṇa means that the tathāgatas have completely eliminated the obscuration of the kleśas and the obscuration of knowledge. Second, nirvāṇa means that the tathāgatas know that there is no self in the individual and no self in phenomena. Third, nirvāṇa means that there is a transformation of the body and of qualities. Fourth, nirvāṇa means that there is a spontaneous guidance of beings. Fifth, nirvāṇa means that there is sameness in the dharmakāya because there is no differentiation of characteristics through the truth becoming manifest. Sixth, nirvāṇa means that there is no duality between the nature of samsāra and nirvāṇa. Seventh, nirvāṇa means that purity is manifested through the realization of the essence of phenomena. Eighth, nirvāṇa means that there has been the skillful accomplishment of all phenomena being devoid of birth and devoid of destruction. Ninth, nirvāṇa means that there is the attainment of the gnosis (jñāna) of the equality of the true nature, the dharmadhātu, and the ultimate conclusion. Tenth, nirvāṇa means that there is the knowledge that there is no difference between the nature of all phenomena and the nature of nirvāṇa. https://84000.co/translation/toh556


Also, Krodha previously clarified:


"Nirvana is just a total purification of the mindstream, not a place that is entered or departed from." "Does the mind-stream continue after Parinirvana? "Yes, it is unceasing. Nirvana etc., is only the total purification of the mindstream."




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R41NBOWRUMP3R

OP

10h ago

I really appreciate the thorough answer and citations.


Is it then a misnomer that nirvana is escape from samsara? If their natures are no different?




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xabir

10h ago

It is an escape from samsara in the sense that there is an end to karmic births and deaths in samsara. Yet, this escape, or nirvana, turns out to be samsara (the world of phenomena) rightly perceived with wisdom. This is why samsara and nirvana is nondual, etc. The nature of all phenomena is of the same nature as nirvana because all phenomena that dependently originates are fundamentally without birth and cessation, are non-arising and non-originated (anutpada) due to lack of an essence or self-nature — i.e. empty.




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u/R41NBOWRUMP3R avatar

R41NBOWRUMP3R

OP

9h ago

But how can something both have a birth and death but also be without birth and cessation?


This is the root of my question in OP. Is nirvana just realizing that birth and death aren’t real? Or is it an actual cessation of a rebirth process?


I’m not sure how you escape something by realizing it doesn’t exist. Surely that means you were never trapped to begin with? If it’s just the cessation of illusion, or the right perception that you were girdled by a falsehood then why do we insist of saying rebirth actually exists? Shouldn’t the masters have just said “it might seem to you that you exist in a cycle of rebirth, but this is an illusion, and you’ll understand that if you practice” etc etc



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u/R41NBOWRUMP3R avatar

R41NBOWRUMP3R

OP

9h ago

You’ve verbalized a thought I had a bit earlier before writing the OP. Like, the best possible remedy for my skepticism at embracing the questionable and seemingly illogical aspects of Buddhism is that I can’t seem to get a straight answer about any of it out of anybody haha.



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u/xabir avatar

xabir

8h ago

First thing one must understand is that emptiness does not deny conventional validity and functionalities. It is not the naive and nihilistic assertion that “everything is just nothingness, non-existent”, etc.


Rather: It is precisely because all things lack an essence or svabhava, svabhava being an essence (of a self or phenomena) that exists independent of the various causes and conditions contributing to the arising of a given phenomena, that the soteriological value of the Buddhadharma is made possible, and an end to samsara is possible. If there were svabhava or essence in self and phenomena, everything would exist independent of causes and conditions, would be static and immutable, and hence suffering cannot be ended, the path would be impossible, and so on.


The Sixty Stanzas states: “That which originates due to a cause… disappears when the conditions are absent—how can it be understood to ‘exist’ (in itself)?”


From the Madhyamaka standpoint, “not born” (anutpāda) negates inherent birth—birth from its own side—without denying the dependent, conventional arising of aggregates. Nāgārjuna’s Chapter 24 is explicit: to deny dependent arising is to undercut emptiness itself, which would “contradict all worldly conventions” and make action/karma, etc impossible; if things had svabhāva, “the whole world would be unarising, unceasing, and static.” In short: conventional arising depends on the ultimate absence of svabhāva.


This is why he can also say, in the very same chapter, that for whom emptiness is clear, everything (on the path and in the world) becomes clear/possible—and for whom it isn’t, nothing does (MMK 24:14). What looks paradoxical dissolves once “unborn” is read as “not inherently, but dependently arisen.”


Hence: It is precisely because of emptiness that all things are made possible, being a dependent origination and dependent designation, and the conventional validity of the four noble truths, the process that starts samsara and the liberation from samsara and cyclic rebirth is made possible. This is discussed in Chapter 24 of the Mulamadhyamikakarika by Arya Nagarjuna, chapter on the Four Noble Truths.


You basically asked: “How do you escape something by realizing it doesn’t exist?”


Continued below




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u/xabir avatar

xabir

8h ago

The answer is: we are not negating valid functionalities; we are negating inherent existence. Seeing that “self”, “phenomena”, “birth” are an empty and dependently originating and dependently designated process that never truly originated as truly existent entities undercuts the ignorance and grasping that fuels its re-production—this is precisely how cessation of ignorance brings cessation of the rest. This is already the Buddha’s middle teaching and Nāgārjuna’s point in equating dependent arising ≡ emptiness ≡ the middle way ≡ dependent designation.


Emptiness should not be misunderstood as nothingness or non-existence (which pertains to the wrong view of the nihilists) but must be understood in terms of dependent origination.


“Pursuant to the middle view, Tson-kha-pa cites Nagarjuna's Yuk-tisastika and Candrakirti's Yuktisastika-vrtti. Nagarjuna: What arises in dependence is not born; That is proclaimed by the supreme knower of reality 😊 Buddha). Candrakirti: (The realist opponent says): If (as you say) whatever thing arises in dependence is not even born, then why does (the Madhyamika) say it is not born? But if you (Madhyamika) have a reason for saying (this thing) is not born, then you should not say it "arises in dependence." Therefore, because of mutual inconsistency, (what you have said) is not valid.) (The Madhyamika replies with compassionate interjection:) Alas! Because you are without ears or heart you have thrown a challenge that is severe on us! When we say that anything arising in dependence, in the manner of a reflected image, does not arise by reason of self-existence - at that time where is the possibility of disputing (us)!” - excerpt from Calming the Mind and Discerning the Real: Buddhist Meditation and the Middle View


Buddha described nirvāṇa as the cessation of the causal chain: with the cessation of ignorance there is cessation of formations … up to the cessation of birth, and thus aging-and-death (the standard reverse order of dependent origination). That is a conventionally real cessation—but it is the cessation of empty conditions, not the extinguishing of a self-thing. The Kaccānagotta Sutta guards the view: avoiding the extremes “everything exists” and “nothing exists,” the Tathāgata teaches the middle via dependent arising. It is because all phenomena are empty and appear in the manner of reflections through dependent origination — functional and appearing vividly yet illusory and having no core or essence anywhere like a mirage, arisen due to dependencies, that once these conditions are removed, they vanish. To give another analogy: If the reflection of moon in water had an essence of its own, that it truly originated and established its own independent existence inside the body of water, then its appearance could not be made to vanish by removing the conditions.


Madhyamaka thus preserves both sides: conventionally, rebirth and cessation talk track the functioning of causes and results; ultimately, “whatever is dependently arisen, that is emptiness… therefore a non-empty thing does not exist” (MMK 24:18–19). Hence the master formula: saṃsāra and nirvāṇa are non-different in emptiness, even while they are experientially distinct as bondage vs. release.


Contrary to the assertion that only things possessing an intrinsic nature (svabhāva) could function, the Prāsaṅgika Madhyamaka reverses this. It is precisely because phenomena are empty of inherent existence that they can arise, change, and interact. As scholar Jay L. Garfield summarizes: "Nāgārjuna’s point is not that empty things are inefficacious, but that only because they are empty can they function; were they to possess intrinsic nature they would be inert.”


This is why emptiness in Buddhism does not negate the conventional validity and functionalities of karma and the twelve links of dependent origination. They are empty and illusory like reflections and water-moons, but not empty in the sense of conventionally non-existent such as rabbits with horns.


Jamgön Mipham, in his commentary on Candrakīrti's Madhyamakāvatāra, explicates this contrast with reference to karmic causality:


“Although virtuous and non-virtuous deeds are alike in lacking inherent existence, an unripened action will still ripen... Just as a patient with an ocular disease may see black lines [that appear and seem to function visually for that patient] that nevertheless disappear once the malady is cured, so too karmic seeds operate once and then cease. A rabbit’s horn, by contrast, never appears at all.” (Adapted from Introduction to the Middle Way, pp. 122-123)


Mipham further elaborates in his auto-commentary:


“All illusory objects—rabbit horns, black lines, water-moons—are equal in lacking inherent nature. Yet an ocular patient sees black lines, and these appearances condition a matching consciousness; they are functional [conventionally, for that perceiver]. A rabbit horn never appears, hence is non-functional. Likewise, virtue and non-virtue are equally unreal [i.e., empty of inherent existence], yet one yields happiness and the other suffering."


This illustrates that conventional phenomena, though empty like a water-moon, are not nothing; they appear and have specific functional capacities within the dependent web of reality. The illusion of inherent existence (svabhāva), however, is like a rabbit's horn—purely imaginary, not found even conventionally, and has no functional capacity. Nāgārjuna’s MMK 15 insists that if something were inherently existent, it would be as impossible to arise or cease as a rabbit’s horn; hence svabhāva is denied both ultimately and conventionally.


On the other hand, Indian exegesis links the water-moon to arthakriyaˉ (“pragmatic efficacy”): what appears empty can still perform a function, like a conceptual designation allowing trade in “fiat” currency. Because its appearance depends on multiple conditions (water, light, viewpoint), the image is vivid yet collapses under analysis—just as persons depend on the skandhas and labeling.


On the other hand, if phenomena possessed a fixed, independent, intrinsic nature, they would be immutable and causally inert. Nāgārjuna makes this point powerfully:


Continued below




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36


u/xabir avatar

xabir

8h ago

Vigrahavyāvartanī (Vv) — the “where emptiness applies…” chain


My literal rendering of the Sanskrit chain (vv. ~70–71):


Where emptiness is operative, dependent origination is operative. Where dependent origination is operative, the Four Noble Truths are operative. … where those [truths and their practices] are operative, the ten wholesome dharmas are operative … the Three Jewels are operative … and worldly conventions hold good.


Published translation for the same passage (Bhattacharya):


“All things prevail for him for whom emptiness prevails … where the Four Noble Truths are in force, fruits, the spiritual community, and the Buddha are in force too … where the Three (Jewels) are in force, the conventions of the world are in force.” Internet Archive


(Source has the Sanskrit and Bhattacharya’s English together; the quoted lines condense the list he gives just beneath the verse.)


MMK 24 (Examination of the Four Noble Truths) — core verses


Objection/response setup (24:1–2):


“(Opponent:) If all of this is empty, neither arising nor ceasing, then for you it follows that the Four Noble Truths do not exist. If the Four Noble Truths do not exist, then knowledge, abandonment, meditation and manifestation will be completely impossible.”


Emptiness ↔ convention/efficacy (24:6–8):


“If dependent arising is denied, emptiness itself is rejected. This would contradict all the worldly conventions. If emptiness is rejected, no action will be appropriate. There would be action which did not begin, and there would be an agent without action. If there is svabhāva, the whole world will be unarising, unceasing, and static. The entire phenomenal world would be immutable.”


Identity of dependent arising and emptiness (24:18–19):


“Whatever is dependently co-arisen, that is explained to be emptiness. That, being a dependent designation, is itself the middle way. Something that is not dependently arisen—such a thing does not exist. Therefore a non-empty thing does not exist.”


Candrakīrti, Madhyamakāvatāra — conventions and the two truths


Conventional truth and “fabricated entities” (VI.28 in this translation excerpt):


“The true (satya) for a concealer [i.e., conventional truth] is that fabricated entities are merely conventional; ultimately they are not established.” Shantideva Center -


“Buddha did not quarrel with the world” — keeping everyday discourse intact (VI.82):


“The Perfect Buddha did not quarrel with the world; in the everyday world, aggregates, and so on, are accepted to exist.”



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24


Soh

Someone wanted to understand more about Tsongkhapa understanding.

I sent him:


“I don’t think you’re off. You’re already pointing at a lot of the right territory — dependent arising, lack of inherent existence, purity, recognition, how afflictive functioning appears. It’s clear you’re not treating this casually.


Where I think the next step is: you’re opening many threads at once, but not yet following any one of them all the way through. At this stage, instead of widening, it’s about drilling down.


Take the statement “things are empty and pure because they’re dependently arisen.” That’s good, and it’s in line with how Tsongkhapa links dependent arising and emptiness: whatever depends on causes and conditions (and on designation by mind) cannot have any inherent nature of its own.  


But Tsongkhapa will immediately press you further:

1. If x is empty because it depends on causes and conditions —

do those causes and conditions themselves have any inherent nature?

2. If you say no, what is the exact reasoning that shows even those causes/conditions are empty and only exist by being dependently designated?

3. Can you carry that all the way through such that nothing in the entire causal network — not the object, not the causes, not “dependent arising” itself — is left standing as something that exists from its own side?


That part is crucial. It’s not enough to say “it’s dependently arisen, therefore empty / pure” as a slogan. In Tsongkhapa’s reading, you have to demonstrate precisely how dependence defeats inherent existence at every level, not just assert it in general terms.  


Same with how you talk about “stain,” “afflictive efficacy,” and “recognition.” You said: when there’s non-recognition, confusion functions as an affliction; with recognition, that confusion is seen as never having truly stained anything, and the afflictive force collapses.


That’s very close to how Dzogchen talks about primordial purity (ka dag) and adventitious obscurations: under non-recognition, the kleshas appear and operate; with recognition, they release, and you see they never truly established themselves.  


From the Madhyamaka/Gelug side, that invites a few surgical questions that are worth answering clearly, because they sharpen your view instead of leaving it a general intuition:

When you say “stain,” what exactly is being stained?

Through what mechanism does that “stain” create afflictive functioning — i.e. what, exactly, is the mode of operation of ignorance?

When recognition happens and the afflictive force stops, what actually happened? Did something get removed, or was something seen through?


These aren’t nitpicks. They’re the heart of insight practice. They force you to describe ignorance and release in a way that is precise, not poetic.


And this is why this can’t really be wrapped up in a few casual lines like “everything is dependently arisen so everything is pure.” If it were that straightforward, we wouldn’t have thousands of pages of Prajñāpāramitā literature and Nāgārjuna’s Mūlamadhyamakakārikā going verse by verse dismantling inherent existence. The Buddha didn’t just drop “it’s empty lol” and walk away — the Prajñāpāramitā sūtras go on and on, and Madhyamaka develops extremely fine-grained arguments about exactly what is negated and how. (The long Prajñāpāramitā texts run into tens of thousands of lines dedicated to this single point, and Nāgārjuna’s MMK is basically a systematic demolition of every candidate for inherent existence.)  


So if you’re serious about understanding Tsongkhapa’s stream — not just getting reassurance that you’re “already there,” but actually internalizing the view — then this is where, honestly, study becomes necessary. This isn’t something that can be resolved by clever phrasing alone.


Yin Ling very strongly recommends going through the Dalai Lama / Thubten Chodron “Library of Wisdom and Compassion” series for this, especially the emptiness-focused volumes like “Searching for the Self,” “Realizing the Profound View,” and “Appearing and Empty.” These books are explicitly designed to walk a modern reader through Tsongkhapa-style Prāsaṅgika logic: how we wrongly project inherent existence, how dependent arising undercuts that projection, how designation works, and how to hold appearance and emptiness together in meditation. They’re deep, not just inspirational, and they’re meant to take you right into the core analysis. Read them and the volume 5 commentary by Geshe Sopa on insight if you really want to understand Tsongkhapa's stream of thoughts.


Also recommended: His Holiness’s “How to See Yourself As You Really Are.” That one is more introductory — it’s very readable and practical, and it trains you to observe in real time how “I,” “object,” and “function” are being projected as solid, and then to watch that projection unravel via dependence, karma, and imputation. It’s extremely useful groundwork, but it doesn’t go all the way into the very sharp, technical Prāsaṅgika moves that Tsongkhapa is famous for. Think of it as establishing the habit of looking, preparing you for the heavier material.  


So my suggestion is basically:

You’re on the right track.

At this point, depth matters more than clever synthesis.

The way to get that depth is to sit with those very specific questions (about how dependence actually erases inherency in every link, and what “stain / recognition” actually means in lived cognition), and to work through systematic presentations that were designed to answer exactly those questions, line by line.


If you do that, you’re not just collecting viewpoints (“Tsongkhapa says X, Dzogchen says Y”), you’re actually doing the same analytic work those traditions expect of a serious practitioner. And that’s the part that really matures the view.”

Soh
ある人がこう書きました。 無我(Anatta) 質問 みなさん、こんにちは。 質問があります。 まず手短に背景を話さないといけません。 数年前、私は深い体験をしました。 まるでヴェールが外れたように、突然「自分は存在しない」と見えたのです。 この身体という有機体をコントロールできるような自己とか自由意志は、内側にはまったくなかったのです。 それ以来何年も、私はその見方から自分自身や他人を観察し続けました。 それは、朝目覚めたときに最初に浮かぶ思いであり、眠りに落ちる直前に最後に浮かぶ思いであり、それが空っぽになるまで続きました。 私のまわりの誰も同じものを見ておらず、私がその話をすると怒ったりしました。 そこで私は、科学を勉強しはじめて、自分の考えを支持する証拠や、逆に否定する証拠を探しました。 それは、世界は運命論的であり、そして各瞬間ごとに理解するにはあまりにも複雑すぎる、ということを確認させただけでした。 それは私をさらに先へ押し進めました。 それで今では、私の人生は止まってしまい、内側には気にかける「誰か」すらいません。 ただ、私の感覚の前に置かれる刺激に対して、かすかな、弱々しい感情的・精神的反応があるだけです。 希望も、野心も、目標もありません。 私は請求書も払わないし、自分の世話もしません。 だって、「私」がなぜそれをしなきゃいけないの? やがて、3~4年前に、私はいくつかの「スピリチュアル」な文献に出会い、そこに仏教の無我(anatta)と輪廻的な意識(samsaric consciousness)という教えが述べられていました。 この状況で、仏教徒なら何を勧めるのでしょうか。 というのも、何も変わらなければ、私はすぐに死ぬか刑務所行きになると思うからです。 それでも私は構いません。 ただ、肉体的な痛みは楽しみではありませんが。

あなたの言うとおりです。 それはとてもアンバランスで不健康なもので、だからこそ消耗しきって、最終的には問題になりました。 けれど、それは恐れや疑い、そして何が起きたのか理解できないことがあったにもかかわらず、同時に深くて美しい体験でもありました。 私はいま、このことを正しく、あるいは少なくとももっと良くて健康的なやり方で行うためのガイダンスや実践が必要な地点にいます。 ですから、私は修正や指導を受け入れるつもりです。 ありがとうございます。

私(Soh)が返信しました。 こんにちは。 u/krodha(カイル・ディクソン)がこの投稿を私に教えてくれました…なので、私の2セント(ちょっとした意見)を共有しようと思います。 自己/自己(Self)にはいろいろな度合いがあります。 それぞれ詳しく展開することもできます――詳しい説明は私のブログと無料ガイド(https://app.box.com/s/157eqgiosuw6xqvs00ibdkmc0r3mu8jg)にあります。 でも、この投稿では要点だけを述べます。

自己/自己(Self)と無我(Selfなし)の体験には、主に三つの大きな度合い(側面)があり、それぞれの中にも洞察や体験の精緻さの段階があります。

1. 行為者不在(non-doership)としての「自己なし」。 もはや自分が「やっている人」や「コントロールしている人」だとは感じず、あらゆる思考や行為はただ自ずから起こっているだけだと感じられます。 自分の思考や感情さえも「行為者」から来ているのではなく、次の瞬間にどんな思考が現れるのかさえ分からず、ただ現れるだけだと見えます。 のどが渇いたら、手は勝手に飲み物を取って、身体は勝手にそれを飲み下します。 行為者不在よりさらに洗練されたレベルとして、私が「インパーソナリティ(impersonality=個人的な自己感が溶けること)」と呼んでいる段階があります。 インパーソナリティは、単なる行為者不在という体験だけではありません。 それは「個人的な自己」という構造そのものが溶け、エゴが浄化されるような作用を経て、「これは私のものではない」という清潔で純粋な知覚シフトの状態に入り、同時に、あらゆる存在やすべての人が同じいきいきした生命性/知性/意識の表れであるかのように感じられる状態です。 そこからは、簡単に「普遍的な源」があるかのように外挿してしまいやすく(ただし、それは単なる外挿であり、後の段階で解体されます)、自分がより大きな「いのち」と「叡智」によって「生かされている」という感覚も起こります。 インパーソナリティは自己感を溶かす助けになりますが、同時に、形而上学的な「本質」へ執着したり、普遍的意識を人格化・実体化・拡大解釈してしまう危険もあります。 無我(anatta)や空(emptiness)へのより深い洞察は、その「実体化してしまう傾向」を溶かすことになります。 さらに、もう一つ別の洞察/リアリゼーションにも触れておきたいのですが、これは行為者不在とは同じではなく、「純粋なプレゼンスと透明な明晰さとしての自分の光り輝く本質」を悟ることです。 行為者不在を経験した人でも、「自分の存在そのもの、プレゼンス=気づきとしての存在感、つまり『私はある(I AM)』というあり方」が、思考や概念に関与しないまま残っている、とまでは必ずしも気づいていないことがあります。 つまり、すべての思考への関わりが静まり、すき間のような瞬間に、疑いようのない「存在そのもの」が突然はっきりし、「思考がまったくなくても、ただ『私/存在/意識』がある」という直知が起こるのです。 そして、それこそが存在そのものの光り輝く中核だと分かります。 それは意識であり、純粋な有りようそのものであり、至福です。 このリアリゼーションはしばしば「アートマン(本質的自己)」として実体化されがちですが、私はこれはとても貴重で重要なリアリゼーションであり、単なる行為者不在から前進した段階だと考えています──ただし、後述するさらなるリアリゼーション、特に無我(anatta)のリアリゼーションによって、これはさらに洗練されていきます。 3) で述べる無我(anatta)のリアリゼーションでは、このプレゼンス=気づきとしての存在感が、否定されるのではなく正しく理解され、そのプレゼンスの「本来的な固有性がないこと・空であること・二元ではないこと」という性質が見抜かれます(なお、二元ではないという側面が、そのまま空であることを直ちに意味するわけではありませんが、ここでは深く立ち入りません)。 基本的に、このリアリゼーションがあると、あなたは虚無的な響き方にはならなくなります。なぜなら、あなたは「存在そのものの非常にポジティブで光り輝く中核」を見いだしているからです。 また、このリアリゼーションの後には、自分のすべての思考や、じつは世界全体さえも、その「存在の根底(Ground of Being)」に支えられているように感じられます。 道を走っているとき、もはや自分を「外の対象と関係している一人の人間」とは見ず、むしろ、あらゆる対象・木々・人々・風景そのものが、その存在の根底から湧き上がっては沈みこみ、そして「通り抜けて」いくように感じられます――まるで映画の投影が、ただスクリーンを「通り抜ける」だけであるように。 自分が「何かのそばを通り過ぎる誰か」であるという感じはなくなり、代わりに、自分の身体や心、風景や対象そのものが、動かないプレゼンスの中で「投影され」「通り過ぎていく」だけなのだと感じられます。 このリアリゼーションについて、ジョン・タンは以前こう書きました。 「Hさん、こんにちは。 あなたが書いたことに加えて、私はプレゼンスのもう一つの側面をあなたに伝えたいと思います。 それは、プレゼンスを、その最初の印象として――混じりけがなく、静けさの中で一気に全開で――遭遇することです。 これを読んだら、全身全霊でただ感じてください、そして忘れてください。 頭をこねくり回さないでください。😝 プレゼンス、アウェアネス、ビーイングネス、イズネスという言葉は、みな同義です。 いろんな定義はできますが、それらはそのもの自体への道ではありません。 そこへの道は、非概念的で直接的でなければなりません。 それが唯一の道です。 『生まれる前、私は誰か?』という公案を観じるとき、思考する心は、答えを得ようとして自分の記憶バンクを探り、似た体験を探そうとします。 これは思考する心の働き方です――理解しようとして、比較し、分類し、測ろうとするのです。 しかし、こうした公案に向き合うとき、心は自分自身の深みを貫こうとして答えが出ないところまで行き、限界に達します。 そしてある時点で、心は完全に疲れ果て、完全な静止に至り、その静止から大地を揺るがすようなドンッ!という一撃が生じます。 私。 ただ『私』。 生まれる前のこの『私』、千年前のこの『私』、千年後のこの『私』。 私は『私』である。 そこには、恣意的な思考も、比較もありません。 それは、自分自身の明晰さと、自分自身の存在を、清らかで純粋で直接的な非概念性の中で、自ら証明します。 理由も、なぜも、ありません。 ただ、それ自体が静止の中にあるだけで、ほかには何もありません。 ヴィパッサナーとサマタを直観してください。 total exertion とリアリゼーションを直観してください。 メッセージの本質は、生のまま、言葉に汚されていないものでなければなりません。 お役に立てれば幸いです!」 ― ジョン・タン、2019年

しかし、行為者不在を悟った人でも、そのプレゼンス(プレゼンス=気づきとしての存在感)にはまだ気づいていない場合があるので、「私は誰/私は何か?」と問う自己探求(self-enquiry)は、その方向へ向かう助けになります。 「私はある(I AM)」というリアリゼーションも重要であり、「無我(anatta)と純粋なプレゼンス(Pure Presence)」で説明されているように、その後のさらなる洞察のための重要な基盤になり得ます。 「私はある」を悟るもっとも直接的な方法は自己探求であり、自分に「生まれる前、私は誰だったのか?」あるいは単に「私は誰だ?」と問いかけることです。 参照:What is your very Mind right now?、そして The Awakening to Reality Practice Guide および AtR Guide - abridged version の自己探求の章。 自分自身の輝き、自分自身の清澄な意識性、純粋なプレゼンスを直接悟ることは、実はとても大切です。 それがないと、「自己なし」の体験は行為者不在のほうに偏り、透きとおるような非二元の光明感ははっきりとは現れません。 それはAtRでは、真正な無我(anatman/無我)のリアリゼーションとは見なされません。 このテーマについてさらに読みたいなら、Pellucid No-Self, Non-Doership, Nice Advice and Expression of Anatta from Yin Ling and Albert Hong + What is Experiential Insight?、Anatta and Pure Presence、Actual Freedom and the Immediate Radiance in the Transience、The Transient Universe has a Heart を参照してください。

2) 主体/客体、または認知者/認知対象という二分が貫かれて溶けるという意味での「自己なし」。 これは、感覚される世界の対象を、自分という内側の主観的な認知者が見ている、という感じそのものに関わります。 つまりふつうの人は、自分の目の奥のほうから世界と関わっているという深い感覚を持っていて、「外側の世界」にある木々や人や物を『こちら』が見ている、と感じています。そして木やテーブルや物の形や色や特徴は、観察者とは独立した「外にあるもの」の本来的属性だと感じ、彼らは自分の身体という『内側』の視点からそれらを観察しているのだと思いこんでいます――主体と客体、認知者と認知されたもの、というわけです。 認知者と認知対象。 しかもそれは視覚だけではありません。ふつうの人は音を聴くときも、その音は「あっちにある」と感じ、自分は「こっち(身体の内側)にいて」そこから音を聴いていると感じます(それが正確に身体のどこなのかはあいまいで、頭だと言う人もいれば、ハートだと言う人もいます。ふつうの人はこうした自己感と二元性をちゃんと精査せず、当たり前の前提として受け入れています)。 しかし、この自己感と二元的な感覚は、ほとんどの人にとって非常にリアルな体験であり、疑いもなく「これが現実だ」と受け入れられています。 理解しておくべきなのは、1) で述べた行為者不在やインパーソナリティを経験した人でも、2) で述べている非二元性をまだ経験していないことがある、という点です。 つまり、すべてが自ずから起きていると感じていても、それでもまだ、物事が勝手に起こるのを離れた場所から眺めている「乖離した観察者」のように感じている場合があるのです。 それは、身体と心がやっていることすべてが、まるで別人の動きのように見える、三人称視点のシューティングゲームを後ろから見ているような感覚に似ています。ただし乖離状態では、そのキャラクター(人々が「あなた」と呼ぶ身体=心)を自分で「操作している」わけですらなく、その身体=心が勝手に考え、行動し、振る舞うのを、遠くから冷めた観察者としてただ見ているだけなのです。 こうした乖離感と、行為者不在の感覚が同時に起こる人もいます。

つまり、行為者感が溶けても、主体と客体という二分が溶けたとは限らない、ということです。 したがって、主体―客体の二元性、すなわち「認知者と認知対象のあいだのギャップ」は、さらに深い洞察で貫かれていくべき、別の層の『自己』だと言えます。 そして、主体/客体=認知者/認知対象の分裂が溶けることは、短命なピーク体験として一時的に起こる場合もあれば、それ自体がはっきりとしたリアリゼーション(気づきの転換)として起こり、非二元の体験が安定化する場合もあります。

体験としては、これは多くの人にけっこう普通に起こり、たとえば音楽をただ楽しんでいるとき、夕日を眺めているとき、美しい風景にひたっているときなどに、ふっと自分の「自己」を完全に忘れてしまい、自己を忘れるその行為によって、まるで別の意識状態――非常に鮮烈で高まった状態――に入ることがあります。そのときには、もはや「遠くから夕日を見ている私」ではなく、「私はその夕日そのものだ」と感じたり、「太陽と一つに溶け合った!」「私は木々そのものになった!」と表現したりします。 その瞬間には、「ここの私」と「あっちの太陽」という感じが突然なくなり、ただ、きらきらと生き生きしたオレンジ色の光が、まったく距離なしに、それ自身をそれ自身に示しているだけで、ものすごく鮮明で、生き生きとした色彩のひらめきとしての意識があるだけなのです。 こうしたピーク体験について、マイケル・ジャクソンはこう書いています。 「意識は創造を通して自らを表現する。 僕たちが生きているこの世界は、創造主のダンスなんだ。 ダンサーたちは一瞬のきらめきの中で現れては去っていくけれど、そのダンスそのものは生き続ける。 僕が踊っているとき、何度も神聖なものに触れられたように感じる瞬間があった。 その瞬間、僕のスピリットは舞い上がり、存在するすべてと一つになったように感じるんだ。 僕は星にも月にもなる。 恋する者にも、愛される者にもなる。 勝者にも、敗者にもなる。 支配する者にも、従う者にもなる。 歌い手にも、歌そのものにもなる。 知る者にも、知られるものにもなる。 僕は踊り続ける――それこそが永遠の創造のダンスなんだ。 創造主と創造されたものは、喜びという一つの全体性に溶け合う。 僕は踊り続ける…そして踊り続ける…そしてまた踊り続ける。 ついには、ただ…ダンスだけになるんだ。」

しかし、ここで語られているのは、依然として「体験」にすぎません。 それは非二元の体験ではあるけれど、「リアリゼーション(はっきりした見抜き)」ではありません。 こういう体験は現れては消えていきます。 ある人は、命がけのスポーツに身を投じてゾーンに入り、非二元の至福を垣間見ます。別の人はダンスでそれを味わい、また別の人は特定のドラッグで、あるいは瞑想でそれを味わいます。 しかし、そうした体験はどれも現れては消えていきます――意識の中でパラダイム転換が起こり、現実や意識の真実はもともと主体と客体に分かれていなかった、意識はそもそも最初から「認知者」と「認知対象」に分裂していなかった、意識とそのあらわれは最初から別物ではなかった、と突然はっきり分かるまでは。 非二元への洞察が起きると、体験から距離を取って乖離する傾向は薄れ、代わりに、分裂も距離もなく、すべてを生き生きした意識としてそのまま全開で受け取る方向へと傾きます。 こうしたリアリゼーションは、ざっくり言えば二つに分かれます。 a) 実体的/本質的な非二元 b) 非実体的/非本質的な非二元

後者(b)は、私が「本来の意味での無我(anatta)のリアリゼーション」と呼んでいます。 しかし、まず a) の実体的・本質的な非二元について要約しましょう。 その人は、自分の意識はあらわれから分かたれていなかった、あらゆるあらわれこそ意識そのものだ、と悟っているかもしれません。 とはいえ、意識を「固有に存在し、不変で、すべての現象の基盤である源」とみなす深い条件づけ(業的な慣性)はまだ残っていて、ただし今は、その意識は自分の現れと分かれていないと見ているので、すべてを「純粋意識の変奏」にまとめあげてしまいます。 あらゆる現象は、ただ「純粋意識がさまざまな形で自らを表現しているだけだ」と見えるのです。 ただし、その形そのものが意識と同一だとはしません――その形は、変わらないスクリーン/鏡に投影される光のショーのようなもので、投影や反射は主体/客体の分裂なしにその鏡面から絶えず現れては通り抜けていきますが、「意識という基盤そのもの」は変わらないまま残っている、と感じられます。 ヒンドゥー的な伝統は、だいたいこの地点までは到達できます。

3) 私が「無我(Anatta)のリアリゼーション」と呼んでいるもの。 b) のほうでは、すべての形が意識の変奏にすぎないというだけではなく、実際には「気づき(Awareness)」「意識(Consciousness)」と呼んでいるものがまさにすべてであり――つまり、「気づき」や「意識」というものが、それとは別立てのどこかにあるのではなく、目に見え、耳に聞こえ、感じられ、触れられ、思考され、嗅がれる、その五蘊的な輝く顕れそのもの以外にはまったく無い、と見抜かれます。 無我は、単に「人格的な自己から自由になった」的な体験ではありません。むしろ、自己/行為者/思考者/見張り役などが、瞬間瞬間の現れの流れとは別にどこにも見つからない、という徹底した洞察です。 非二元は、すでに常にそうであったこととして徹底的に見抜かれます:つまり、非二元のなかの努力のなさです。見るときには、ただ景色だけがある(色以外に「見ている者」も「見るという行為」すらもない)。聞くときには、ただ音だけがある(音以外に「聞き手」も「聞くという行為」すらも決してない)。 ここで非常に重要なのは、無我(Anatta)/自己なしは「法印(Dharma Seal、法印)」であり、いついかなるときも現実の本質そのものだ、という点です――それは、単に「エゴや小さな自己がなくなった状態」や「どこかの段階で到達するステージ」なのではありません。 つまり、無我を体験することは修行者の達成度に依存するのではなく、現実そのものが常に無我であったのであり、大切なのは、それを現象の性質=特徴(法印)として直観的に見抜くことなのです。 この法印の重要性をさらに示すために、私はバーヒヤ経(Bahiya Sutta/ウダーナ1.10)からの引用を借りたいと思います(http://awakeningtoreality.blogspot.com/…/ajahn-amaro-on-non…)。 「見るという行為においては、ただ見えているものがあるだけで、見る者はいない」「聞くという行為においては、ただ聞こえているものがあるだけで、聞く者はいない」… もし修行者が、「『私は音を聞いている』という段階を超えて『私は音そのものになっている』に至った」とか、あるいは「ただ音があるだけだ」と考えるなら、その体験はまた歪んでしまいます。 実際には、聞いているときには常に、そしてただ音だけがあるのであって、もともと「聞き手」など一度もいなかったのです。 そこには何も獲得などありません――それは最初からずっと、そうだっただけなのです。 これこそが、ほんの数分から長くても一時間程度で消える一時的な非二元のピーク体験と、そのピーク体験そのものが恒常的な知覚モードとして定着してしまうような、恒久的な量子的転換との主な違いです。 これは無我という法印であり、単なる観念ではなく、あらゆる瞬間において実際に悟られ、経験されうるものです。

まとめると、b) の無我のリアリゼーション、そしてある程度は a) の実体的な非二元が熟してくると、非二元は「たまに訪れては去っていくピーク体験」ではなくなります。なぜなら、意識という全体のパラダイム、知覚の結び目、絶え間ない心のはたらき――つまり「自己」や「主体/客体の二元性」を投影し続ける心的なはたらき――が、もっと根底のところで断ち切られ、世界を知覚する枠組みそのものが揺さぶられてしまうからです。 私自身の話をすると、無我を悟ってから9年以上のあいだ、私は主体/客体の二元性やエージェンシー感(「私がやっている」という感覚)を、ほんのわずかな痕跡すら体験していません。 それは完全に終わっていて、もはや一時的なピーク体験ではないのです。

あなたの投稿の内容は、私が「行為者不在(non-doership)」と呼んでいるものです。 それは素晴らしい洞察ですが、そこからさらに進むと、まさに人生をとてもポジティブな意味で変えてしまう、さらに素晴らしい洞察がまだまだあります――私はそれを強く勧めたいのです。 無我(anatta)を悟り成熟させ、自己/自己(Self)のあらゆる側面が完全に溶け落ちたあとの世界は、本当に素晴らしいものです。 その世界を、私は自分の無料ガイドの中でこう描写しました。 「それは、いかなるものもその清らかさと完全さを汚したり触れたりできない世界であり、宇宙全体/心全体がつねに、そのまったく清らかで完全なものとして生き生きと経験されている世界です。そこには、世界を離れた見張り役としての自己感や観察者感はまったくなく、人生は『自己』抜きの生きた楽園であり、苦痛の感情から自由なのです。あらゆる色、音、匂い、味、触覚、そして細部までもが、境界のない純粋な気づきの場として立ち現れ、きらめく輝き、高彩度、ハイビジョンのような光沢、強烈な鮮明さ、驚異と魔法のような感じとして立ち現れます。まわりの景色、音、香り、感覚、匂い、思考は、どの感覚門からであれ六つすべてを通じて、いちばん細かいところまでも自然で鮮烈に明らかで、まるでおとぎ話のような不思議の国のように、毎瞬ごとに、初めて見る赤ん坊のように、まったく新しく、かつて見たことのないものとして開示され続けます。そこでは、人生は平安・喜び・無畏に満ちており、表面上どれほど混沌や困難があっても、それでもなおそうなのです。すべての感覚体験は、かつて味わったどんな美しさよりもはるかに超えており、まるで宇宙全体が金と宝石でできた天界そのもののように、分離も仲介もいっさいなく、完全に切れ目のない直接性の中で経験されます。人生も宇宙も、強烈な明晰さ、生々しい生気、活き活きした現前感として経験され、それは中心も境界もなく、果てしない夜空のような無限性が常にそのまま実現されています。その無限性は、ただ宇宙全体が空っぽで無距離で無次元であり、しかしものすごい存在感として迫り出している、という形で現れます。地平線上の山々や星々は、自分の息づかいよりも遠くなく、自分の鼓動のように親密に輝きます。その宇宙規模の無限性は、歩く・呼吸するというごく日常の行為のなかでさえ現実化されており、そこでは宇宙全体が常に、あらゆる日常活動として、そしてあなたの身体そのものとして(『私』や『私のもの』という痕跡は一切なく)働いており、その無限のはたらきの外側にあるものなど何もありません。こうしてすべての感覚の窓が洗い清められることで顕れるこの驚くべき世界の清らかさと無限性は、絶え間なく続きます。(「もし知覚の扉が清められたなら、人はすべてをそのままの、無限なるものとして見るだろう。ところが人は自分を閉じこめてしまったので、洞窟の狭い裂け目ごしにしか万物を見ないのだ」――ウィリアム・ブレイク)」

行為者不在(non-doership)は無我(anatta)の側面のひとつにすぎず、それ自体が無我のリアリゼーションそのものではありません。 (Thusness 第5段階:「…第5段階は『誰でもない』という感覚が非常に徹底していて、私はこれを、三つの側面すべて――主体/客体の分裂なし、行為者不在、そしてエージェントの不在――における無我だと呼ぶでしょう…」) 行為者不在は、「私はある」という段階(I AM リアリゼーション)のときにも起こりえますし、人によっては I AM を悟る前にすら起こることもあります。 したがって、行為者不在は無我のリアリゼーションとイコールではありません。 しかし、行為者不在という側面が無我のリアリゼーションそのものを示さないからといって、それが重要ではないという意味にはなりません。 特に、ジョン・タンが述べる無我の第一の詩句(first stanza of anatta)が貫かれて明晰に悟られると、行為者不在ははっきりと体験されてきます。 ただし、その第一の詩句は、単なる行為者不在だけではないという点は、ここでの対話が示しているとおりです。 その第一の詩句は、「エージェントの不在」と「行為者不在」の両方を同時に伝えており、行為者不在だけを伝えているわけではありません。 ある人のブレークスルーについてコメントするとき、ジョン・タンはこう言いました。「むしろ第二の詩句に近い。無我のなかでは、行為者不在も同じくらい重要なんだ。」 そして別の人へのコメントでは、こうも言いました。「非二元ではあるんだけど、まだ慣習的なものと究極的なものの違いをはっきり見分けられていない。 自然な自発性(natural spontaneity)について語られていた? 無我の二つの詩句では、行為者不在は自然な自発性へとつながっていく。 いま話されているのは、観照者と観照されるものからの自由ということだけど、現れそのものがただ空っぽの明晰さだという第二の部分がまだない。 だから、その二つの洞察を土台として持たないかぎり、いきいきした現前そのものの努力のなさ、ということは不可能なんだ。」

自分は無我を突破した、と誰かが言うとき、その九五%から九九%くらいまでは、実は「人格性がなくなった感じ」や「行為者がいない感じ(ノン・ドゥアーシップ)」のことを指していて、まだ非二元ですらなく、ましてや仏教でいうアナッタ(無我という法印)という本当の悟りではない、というのが私の見積もりです。 無我を悟ったと言う人には、私はたいてい次の基準で自分の体験を点検してもらいます。 「実際的な洞見とは何か」👍 ヤン・リン(Yin Ling):

仏教で「体験としての洞見」と言うとき、 それはこういう意味です.. 全存在のエネルギーの向きそのものが骨の髄にまで文字どおりひっくり返ることです。 音は、必ず文字どおり「自分で自分を聞いている」ようにならなければなりません。 聞き手はいません。 きれいに。 クリアに。 頭のここからあそこへとつないでいた束縛が一晩で断ち切られます。 それから徐々に、残りの五感すべてにもそれが及びます。 その段階ではじめて「アナッタ(無我)」という話ができます。 だから、あなたの場合はどうですか、 音は自分で自分を聞いていますか。 もし「いいえ」なら、まだです。 もっと進み続けなければなりません! 問いかけて、座って観察してみてください。 まだアナッタや空に至るような深い洞見のための、いちばん基本の洞見要件すら満たしていないのです!

ヤン・リン:「リアライゼーション(悟り)というのはね、 その洞見が骨の髄まで染みこんで、音が自分で自分を聞くことに一滴の努力すらいらなくなることなんです。 それは、いまあなたが二元的な知覚で生きているのと同じくらい普通で、努力ゼロという感じです。 アナッタを悟った人は、思考で方向づけたりしなくても、アナッタの中を当たり前のように生きています。 それがその人のふつうの生活なんです。 彼らはもう二元的な知覚に戻ることすらできません、なぜならそれ(二元的な見方)は単なる思いこみで、もう根こそぎ抜かれてしまっているからです。 最初のうちは、少し意図的に向け直す努力が必要かもしれません。 でも、ある時点からはその必要もなくなります.. さらに進むと、夢の中でもアナッタになります。 それが体験としてのリアライゼーションです。 このハードルに達していないなら、リアライゼーションはまだと言わざるを得ないんです!」

……

ソー(Soh): 大事なのは、体験としてのリアライゼーションが、形や音や輝く宇宙ぜんぶへとエネルギーが外向きに広がりきっていく感じ――そういうエネルギー的な拡がりをもたらすことだという点です。 つまり「自分」はここ、身体の内側にいて、そこから木を見たり、ここから鳥のさえずりを聞いている、ということではなくなるんです。 ただただ、木々が自分自身で鮮やかに揺れていて、観察者なしに、光りかがやいているだけ。 木そのものが自分で自分を見る。 音そのものが自分で自分を聞いている。 それらが経験される「場所」も「視点」もありません。 そのエネルギーの拡がりは、限りなく境界がなく現れとして広がっているのに、どこか中心から外へ広がっていくのではありません――そもそも中心がないんです。 こういうエネルギー的転換がないなら、それは本当の無我(アナッタ)の生きた体験とは言えないんです、xabir Snoovatar。 - https://www.awakeningtoreality.com/2022/12/the-difference-between-experience-of.html ラベル: Anatta, Yin Ling |

それから..「音が自分で自分を聞き、見えているものが自分で自分を見る」みたいな表現。 あれはただの非二元です。 ノー・マインドという状態です。 それだけでは、まだアナッタのリアライゼーションではありません。 もっと重要なのは、アナッタを法印として悟ること、そして固定的な参照点=固有の本質があるという見方を見抜いてしまうことなんです。 前にも書いたとおりです。 「JDさん、あなたの質問について言うとね: そうではないんです。 最近、私はある人にこう書きました。 ちょうど昨日、『I AM』フェーズにいる人が私にこう言ったんです――『前景(=現れそのもの)を"awareness(気づき)"として見るのがむずかしいんです。たぶん自分の中で"awareness"と"背景"を同一視しちゃってるんだと思う。』 私はその人に、こう答えました――それは、あなたの中に"awareness(気づき)"の定義が固まっていて、それがブロックになっているからだよ、と。 その人はこう言いました――『じゃあ"awareness"の定義はいったん忘れて、ただ"前景"のはげしい生っぽさを見ればいいってこと? それで十分?』 私はこう答えました――『いや、"awareness"の定義をただ忘れるだけじゃない。 それを徹底的に見て、問いただして、調べ抜かなきゃいけないんだよ。』 私はさらに、以前ほかの人に送ったテキストもその人に送りました――『背景なしの体験(ノー・マインドの状態としての体験)があることと、「もともと背景の主体も見ている者も、見られているものの背後にいる見るものも一切いなかった」とリアライゼーションとしてハッキリすることは、同じではない。 後者ははっきりしたリアライゼーションとして立ち上がらないといけない。 だから自分の直接の体験の中で徹底的に分析しなければならないんだ。』

カムトゥル・リンポチェ(Khamtrul Rinpoche)がマハームドラーのテキストで語るアナッタのリアライゼーションについて: 「その時点で、観察者――アウェアネス(気づき)――は、観察されている静止と動きとは別物なのか、それとも実はその静止と動きそのものなのか。 自分自身のアウェアネスのまなざしで徹底的に調べることによって、調べているそれ自体もまた静止と動きそのもの以外ではない、と理解するようになる。 これが起こるとき、あなたは明晰な空っぽさを、もともと明るく自己認識している気づきとして経験するだろう。 究極的には、性質と光明、好ましくないものと対治、観察者と観察対象、マインドフルネスと考え、静止と動き、等々と私たちが呼ぶとき、そのそれぞれのペアはどれも本当は別々ではないと知るべきだ。師(グル)の加持を受けて、それらが切り離せないものとして正しく確定しなさい。 究極的には、観察者と観察対象という二分法が消え去った広がりに行き着くことこそが、真の意味のリアライゼーションであり、すべての分析の到達点なのだ。 これは『あらゆる概念を超える見解』と呼ばれ、概念づけから自由であり、また『金剛の心の見解』とも呼ばれる。 『果としてのヴィパশ্যナーは、観察者と観察対象が二つではないという最終的な確信を正しく悟ることだ。』 上でカムトゥル・リンポチェが言っているのは、単なる体験の話ではありません。 それは慣習的な呼び名そのものを見抜き、分析し、それらの慣習が実体的ではないと見抜いているんです。 仏教では、思考が止まりノー・マインドになるような「無分析的な止滅」やサマーディだけでは解放されません。 本当に解放をもたらすのは、固有実在があるという誤った見方を貫いて見抜く智慧に基づく「分析による止滅」なんです。 それはアナッタという法印、縁起(依存的に成り立つこと)、そして空(エンプティネス)を悟るプラジュニャーの智慧のことです。 ——

昔、何年も前のことですが、私はゲイラン(Geylang)にある禅センターに何度も通いました。 そこの師は、世界中に多くの道場を築いたとても有名な韓国系の禅の師匠で、二〇〇〇年代初頭に亡くなられた方です。 私はその師の文章にとても共鳴しました、というのも、その師はノー・マインドという状態をとてもシンプルかつ明快に表現できていたからです。 私はその師の本をたくさん読みました。 その師はこんなふうにも言っていました――「あなたの真の自己には外側も内側もない。」 「音はクリア・マインドであり、クリア・マインドは音である。音と聞くことは分かれていない。ただ音だけがある。」といった具合に。 しかし、その後わかったのは、その師はノー・マインドという体験はしていても「ワン・マインド(一なる心)」という見方にとどまっており、固有実在という見方を貫いて打ち抜くアナッタのリアライゼーションには至っていなかった、ということでした。 その結果として、たとえ非二元の体験があっても、「すべての現象は、一つの実体が多の姿となってあらわれているだけだ」という、一つの実体を本質として仮定する見方(本質的・実体的な非二元観)を捨て切れていなかったのです。 私はその師の見解や文章をさらに詳しく読むことでこれに気づきましたが、ある文章ではこう述べられていました――法性というものは宇宙のあらゆるものを構成する普遍的な実体であり、形はないが水(H2O)のように変幻し、雨や雪や霧や蒸気や川や海やみぞれや氷としてあらわれる、不変の実体なのだ、と。 私には、その師が非二元やノー・マインドを体験していることは明らかでしたが、同時に上の説明は、宇宙全体を貫くたった一つの絶対的で分割不可能な、動じない源・基盤を「二つとない唯一のもの」として実体化している、ともはっきり感じられました。 それは、現象とは非二元ですよと言いながらも、なお形而上的な源や基盤を固有に実在するものとして仮定している見方なのです。

私は二〇一八年にこのことをジョン・タンに伝えました、すると彼はこう返しました――「私にとっては、そうだね。 見解が足りないことによる、取り違えた体験だよ。 それが禅の問題だと私は思う。」 「ノー・マインドは体験にすぎない。 アナッタの洞見が起こらなければならないし、そのうえで自分の見解を洗練しなきゃいけない。」(これは一般的な傾向の話であって、見解が明晰で深い悟りのある禅師も多数います。)

もう一人、アメリカ人の禅の書き手がいます。 私はその人の本も楽しく読み、多くの点でとても共鳴しました、なぜなら彼はノー・マインドの体験や、私が「マハーな全身全霊の発現(total exertion)」と呼ぶあり方を、とてもよく言葉にできていたからです。 彼はこう書いています――仏の心は、山や川や大地であり、太陽であり月であり星である、と。 そしてこうも言っています――「本物の実践と悟りの状態では、寒さがあなたを殺す、するとこの全宇宙にはただ寒さしかない。」 「暑さがあなたを殺す、するとこの全宇宙にはただ暑さしかない。」 「お香の香りがあなたを殺す、するとこの全宇宙にはただお香の香りしかない。」 「鐘の音があなたを殺す、するとこの全宇宙にはただ『ボーーーーン』しかない……」 これはノー・マインドの良い表現です。 しかしその後さらに読んでいくと、私は落胆しました。 その人は、まだアナッタのリアライゼーションに至っておらず、つまりノー・マインドの体験はあるのに「一なる心」という見解を超えていないことが明らかになったからです。 彼はこう主張し続けていました――「心の対象は果てしない流れのように出ては消える。気づき(アウェアネス)の内容は生じては滅する――心あるいはアウェアネスとは、その対象が出入りする不変の領域であり、内容が生じては消える不動の次元なのだ。」 そして、あらゆる現象は移り変わるのに、アウェアネスは不変だとしながら、なおアウェアネスは現象と非二元だ、と彼は言うのです――「要するに、リアリティは二つではない(ノンデュアル)から、リアリティの中のすべてはその一なるリアリティの本来的な側面・要素なんだ。」 つまりその人には、ノー・マインドに至るまでの非二元の体験ははっきりあるのだけれど、固有実在があるという見方はなお非常に強く、しかも微妙なかたちで二元的なのです。 体験と見解の間にズレが残っているのです。 それは「すべてのものと非二元である一つの変わらないリアリティ」という、アートマン的な見方(永遠で固有に実在する一者)をいまだに抱えたままである、ということです。 私は、こういう問題を抱える教師や実践者(仏教系であれ非仏教系であれ)が本当に数え切れないほどいる、と言えます。 だからこそ、アナッタとは単にノー・マインドの体験や、非二元の体験や、主客・認知者と対象・「聞く者と音」といった分割がないというリアライゼーションだけではないのです。 多くの実践者や教師は残念ながらそこを取り違えます。 アナッタとはむしろ、源とか基盤とかアウェアネスという「本質的な実体」があるという見方そのものを見抜き、断ち切るリアライゼーションなのです。 それは、ただ明るく生き生きとした現れそのものが、常に自らとしてあらゆるものを知り、転じ、転がっていくだけで、そこに「知っている者」や「行為者」といった主体は一度もいたことがない、と見ることです――ちょうど「風」というのは吹かせている主体ではないし、「稲妻」というのは閃かせている主体ではない(どちらも依存的につけられた呼び名にすぎない)のと同じであり、そしてまた、どんな形でも存在する恒久の形而上的エッセンスなどはまったくない、と見ることです。 だから『I AM』から非二元へとブレークスルーしたあとには、「一つの実体がすべてに現れる」という見方を抜け出し、アナッタのリアライゼーションを通過することが決定的に重要なのです。 そして、それですらまだ始まりにすぎません。

ここ数週間、私のブログではアナッタを悟った人がさらに増えており、私はそういう人たちを、縁起や空へのより深い洞見へと案内しています。 しかし、本当に深い空や縁起の洞見は、私たちの意識そのもの――私たちの「からりとした空っぽさと明るさ」への深い理解なしには成り立ちません。 私はふつう、縁起や空の話で人を混乱させないようにしています、彼らがまずアナッタのリアライゼーションを二つのスタンザ(偈)の通りに、つまりアナッタを二つの認証(オーセンティケーション)としてはっきりさせるまでは。これはすべての土台だからです。 すべては固有実在がないゆえに空っぽである一方で、くっきり明るく輝いていますし、すべてが「明晰さの光明」としてあらわれています。 ですから、深い洞見のためには、自分自身の光明・明晰さをじかに認証することが決定的なのです。 アナッタのリアライゼーションが鍵です。

第一のスタンザでは、背後にいる主体・エージェント・見張り役・行為者というものが見抜かれて、あらゆるものが自発的な起こりとしてあらわれるだけだと見えます。 第二のスタンザでは、「見ること」はただ「見えているもの」そのものであり、自分の光明的な明晰さ・プレゼンス感そのものが、山であり川であり大地である、と直接に認証されます。 この二つのスタンザは同じくらい大切です。 自分の光明・明晰さが、すべての生々しい現れそのものとしてダイレクトに認証されるということ――あらゆる移ろいが「プレゼンスそのもの」として味わい抜かれるという強烈な味わいと洞見――これが欠けているなら、私はそれを本物のアナッタのリアライゼーションとは呼びません。 それは単なる頭での理解であるか、あるいはまだ「行為者がいない感じ(ノン・ドゥアーシップ)」側に偏っていて、非二元やアナッタにまでは至っていないということです。 そして、たとえ「アウェアネス=生々しい現れそのものだ」とリアライゼーションしたとしても、まだ実体的な非二元観に落ちこむ可能性はあるので、残っている「変わらないアウェアネス」という感覚や見方をさらに見抜いていく必要があるのです。

アナッタの二つの認証とは、私が前にも書いたように、こういうものです、「スタンザ1」。 「考えがある、でも考えている者はいない」 「聞こえがある、でも聞いている者はいない」 「見えがある、でも見ている者はいない」 「スタンザ2」。 「考えの中には、ただ思考だけ」 「聞こえの中には、ただ音だけ」 「見えの中には、ただ形・輪郭・色だけ」 これは法印として認められなければなりません。 「アナッタ」とは単なる段階ではなく、ダルマ(法)の印そのものだという洞見が立ちあがることによって、より力みのないモードへと進めるのです。 つまり、アナッタとはあらゆる経験の本性であり、いつでもそうであった――「私」というものはない、ということです。 見るときは、ただ見えているものだけがある;聞くときは、ただ音だけ;考えるときは、ただ思考だけ。 努力はいりませんし、「私」など最初から一度もいたことがないのです。

だからこそ、アナッタを「法印としてのリアライゼーション」、つまり「見るときはただ見えだけで、背後に観る者はいない」というふうに強調することが大切なのです。 それは、単に「観る者が溶けて見えだけが残る」といった段階ではありません;その段階は、内側の参照点――本来的に存在する知覚者という観念――を貫いて見抜くプラジュニャーの智慧なしにも起こり得るからです。 ノー・マインドの体験そのものは、特別むずかしいとか珍しいというほどではありません。 しかし、ほんとうにアナッタをリアライズすることは、はるかに稀なのです――それは仏陀の道の始まりにすぎないのに。 多くの人は体験だけに目を向けてしまい、その差異を見きわめるクリアさを見落とします。 アナッタを本当にリアライズした実践者や教師は、実際にはとても稀です。 非二元の体験を持つ大多数の人は、「見えの中にはただ見えだけ」というフレーズを、単なるノー・マインドの状態として理解してしまいがちであり、それを、もっと深いところで「自己」「知覚者」「独立したエージェント」、あるいは現れとは別個に存在する究極のアウェアネスや「見ること」があるという観念の、根本的な空っぽさを見抜くリアライゼーションだとは受け取らないのです。 実際には、見ている主体も、「見ている」という固定した行為そのものも、また「現れとは別に存在するアウェアネス」も、最初から一度も実在したことはない――それは、いつでもすでにそうだった真実であって、たまたま一時的な状態ではないのだということを、直接リアライゼーションしなければならないのです。」

もう夜も遅いので、この投稿はさすがに長くなりすぎましたし、ノン・ドゥアーシップ(行為主体の不在)に関するあなたの問題点には、あした別の投稿で取り組みます。

—— 投稿者がこう返しました。 「なんということだ.. いまは言葉が出ません。 もう少し落ち着いたら、ちゃんと返事を書こうと思います。 あなたは本当にわかってくれている。 あなたは、私がこれまでに経験してきたほかの体験や、チラ見えみたいな瞬間や、さらには『こうなんじゃないか?』という疑いまで言い当てています。 ノン・ドゥアーシップについてあなたがこれから言ってくれることを、本当に楽しみにしています。 どれほど感謝しているか、あなたにはわからないでしょう。 いや.. たぶん、あなたならわかるかもしれない。 もう二度読みましたが、きっとまた読み返します。 わあ。 あなたのガイドも読むべきだと思います。 いま目次だけざっと見ましたが、とても興味深そうです。 本当に、本当にありがとうございます!」

---------- 翌日、私はさらにこう書きました。 さらに返信します。 自我/大文字のSelfと無我/Selfなしのいろいろな側面を説明したあとで、今度はノン・ドゥアーシップと無我についての落とし穴や誤解に少し踏み込みます。 ノン・ドゥアーシップを通った人は、ある程度の自発性や自由さを感じますが、同時に強い混乱もついてくることが多くて、それはより深い洞見や指針によってはじめて晴れていきます。 一つの落とし穴は、「無我」と「無為(何もしないこと)」を混同した理解に陥ってしまうことです。 私は二〇〇六年に、ダスネス(Thusness)が友人ディン・ロビンソン(Din Robinson)に書いた「体験の七段階」(もとは六段階)に関係して、Facebookでこう書きました。 ディン:「いったん何か行動したり、トレーニングが必要だと思ったりした瞬間に、『時間と空間の中に"あなた"という存在がいる』という神話を延命させてしまうんだよ、もちろんそれが悪いってわけじゃないけどね!」 私の返答: それは正しくありません。 それは、こう言うのと同じくらい馬鹿げています――「体を健康に保つためにジムに行くなど、どんな行動をとったとしても、それは『時間と空間の中に"あなた"がいる』という神話を延命させることになるんだ」と。 または、 「試験に受かるために勉強をがんばった瞬間、それは『時間と空間の中に"あなた"がいる』という神話を延命させることになるんだ」と。 または、 「生き延びるために食べたり寝たりする、その行為をした時点で、『時間と空間の中に"あなた"がいる』という神話を延命させちゃうんだ」と。 または、 「病気を治すために医者にかかる、その行為をした時点で、『時間と空間の中に"あなた"がいる』という神話を延命させちゃうんだ」と。 無我(アナッタ)は、「考えることや行動すること、薪を割って水を運ぶこと……それらを否定する」ことではありません――ここが、本物のアナッタの洞見と、二元的で観念的な理解との決定的な違いです。 「行為」や「意図」という言葉が「行為者」を含意する、つまり「非行為(しないこと)」になるには意図も行為も止まらねばならない、と考えること自体が、まさに二元的な思考でアナッタを理解しようとしているんです……。 行為はじつは決して「自我」を必要としていなかった(そもそも行為とは別に独立した「自分」や「行為者」は一度も実在していなかった。ただそう思いこんでいただけ)ので、行為は「自我という神話」を延命させる必然性などないのです。 「自我という神話」は、行為するかしないか自体には厳密には依存していません。 もちろん、「私」が「あれを変えよう・あれを手に入れよう」として「それ」を対象化し、主語=私/目的語=それ、という二元性から起こる行為は、無明から生まれる行為のあり方です。 しかし、すべての行為が必ずそのような二元性から出てくるわけではありません。 もしあらゆる行為が二元性からしか生まれないのだとしたら、悟った後の人は食べることもできず、すぐ死んでしまうでしょう。 二元的な理解で動いていると、人は「行為がある=行為する自我がいる」と考え、「非行為」とは「その行為が終わるとき自我も終わる」というふうに思ってしまいます。 しかし本当の「非行為」とは、行為の背後に本当の行為者など最初からいなかった、と見抜くことです。だから、行っているときには、ただその行い全体だけがある――全存在がまるごと、その行い全体の全身全霊の発現だけになっているのです。それはいつでも本当はそうなのに、ただ気づかれていなかっただけなんです。 これが真の「非行為」です――主語(行為者)が目的語(行為される対象)に働きかける、というかたちがもう残っていない状態なのです。 さらに言えば、「自我という神話」は、修行や実践をするかしないかだけで決まるものでもありません。 (とはいえ、「正しい実践」や「観照」は、その神話をほどいていくのにものすごく役立ちます!) 「自我という神話」はむしろ無明に依存しています。そして無明を終わらせるのは智慧だけです。ちょうど、暗い部屋で子どもが怪物を怖がっているとき、電気をつけるだけでその恐怖と思いこみが自然に消えるのと同じです。 いつでも「行為」は、ただ「行為」しかありません。行為者のいない行為だけがあるのです。 「行為者がいない」ということは、行為がないという意味ではなく、「エージェンシー(主体的な支配者)がいない」という意味です。そしてそのリアライゼーションは、全身全霊の発現/全力の行為のただひとつの動きの中で、行為者と行為という二分法が磨かれてついに消えるという、ただちで直接的な体験をもたらします。 「非行為」には、何もしない受け身のニュアンスはありません。 「非行為」とは、ただ「自我/Self 抜きの行為」なのです。 自我/Self という感覚なしに生じているあらゆる行いは、じつはすべて「非行為」なんです。 主観の側(行為者)が消えると、その対立項としての客観の側(行為される対象)も同時に自動的に意味を失います。 にもかかわらず、全身全霊の発現――純粋な行い――ははっきりと続いていきます。 道元はこれを「修証一如(修証一等)=practice-enlightenment」と呼びます。 あなたは悟りという未来のゴールのために修行するのではありません。 アナッタの洞見をその場その場で具体化するあなたの実践そのものが、すでにpractice-enlightenmentなのです。 座っていることは実践であり、そのまま具体化であり、仏性であり、悟りです。 排泄することだって同じで、その行為そのものが、仏性であり悟りです。 ただ座ること、風が吹くのを聞くこと、景色を見ること、道を歩くこと、薪を割り水を運ぶこと――(自我/Self という妄想がいっさいないまま)その一つ一つの行為自体がpractice-enlightenmentであり、そこでは全存在がまるごと全音であり、まるごと全景色であり、まるごと全行為なんです。 それが非二元の実践であり、非二元の行いなのです。

「no-self(アナッタ)」を誤解すると、因果やdependent origination(pratītyasamutpāda)を否定したり誤解したりして、すべては宿命的・決定論的だという考えになってしまう。 仏法におけるno-self(アナッタ)は、dependent originationの理解に基づいている。 しかしdependent originationを、宿命論とか「どうやっても何も成し遂げられない」という発想と取り違えてはならない。 たとえば、ある医者が「自己はない」と悟ったからといって、患者に「すべての病気はある種あらかじめ決まっているようなもので、ただ流れに身を任せて何が起こるか見ていればいい」と告げるとしたら、それは誤りだ。 もちろんそれは単にばかげている。 病気というものは、素早く積極的に対処すべきものだ。 ただしそれは、偽りの主体感(エージェンシー)にもとづいた「コントロールしてやるぞ」「固い意志の力だけで押し切るぞ」というやり方ではない(病気は、ひたすら意志の力で消し去ろうとしても治らない――関与している条件は本当にたくさんある)。 それは、その病気のdependent originationを見て、そのdependent originationを実体視しない仕方で扱うことによって行なわれる。 同じように、ブッダは偉大な医者のような存在で、私たちの病とその治療法を完全に見抜いており、そのdependent originationを見抜くことを通して、四聖諦――すなわち苦の真理、苦の原因、苦の終息、そして苦を終わらせる道(それが八正道である)――を説いたのだ。

それと、ジョン・タン/Thusnessが何年も前に言ったことも挙げておきたい。 「アナッタの見解が『non-doership(やっている者はいない)』という側面だけに偏ると、虚無主義的な傾向が出てくる。 “ただ起こっているだけ”ということは正しく理解されねばならない。 何もしなくても物事が片づくように見えるが、実際には、行為と諸条件が熟して結果が現れるだけなのだ。」 だから、「自性(固有の主体性)がない」ことは、「何もしなくていい」「何もできない」という意味ではない。 それは一方の極端だ。 もう一方の極端は、「完璧なコントロールという自性があって、自分が望むものはすべて意志どおりに得られる」という考えだ。 両方とも偽だと見抜かれる。 「行為」+「条件」が「結果」へと至るのだ。

ブッダが説いた「seven factors of awakening(覚醒の七つの要素)」を知っているだろうか。 それはmindfulness(気づき)、investigation(探求/調べること)、energy(エネルギー)、rapture(歓喜)、tranquility(安らぎ)、stability of mind(心の安定・集中)、そしてequanimity(平等心・バランス)だ。 これは、私たちが実際の修行で育てていくべきものでもあり、自分の修行が今どこにあるのかを測る指標でもある。 これらは、育てることで覚醒と解放へと導く要素だ。 つまり、私たちの修行は、ますます喜びに満ち、輝き、明るく、気づきがあり、静かで、落ち着き、集中し、エネルギーがあり、そしてより深い洞察がある方向へと私たちを導くはずなのだ。 そうした心のポジティブな質は、修行が進むほど自然にどんどん育っていく。 だが、もし逆に、どんどんゾンビみたいになり、ますますだるくやる気がなくなるなら、それは方向がどこかおかしいというサインであり、よく調べて修正すべきだ。 アナッタが成熟すると、全身に勢いよくエネルギーが巡るように感じられ、肌つやすら、その喜びと明るさを自然に放つようになる。

何年も前、ある人が「no-self(自己なし)」や「non-doership(やっている者はいない)」という洞察を語ったあと、ジョン・タン/Thusnessがまず尋ねたことを覚えている――「熱烈なエネルギーは湧き上がったか?」そしてこうコメントした、「アナッタの洞察はアクティブなモードに持っていくのが望ましい」。

つまり、no-self(アナッタ)には、受け身のモードと能動的なモードがあると知っておくのは良いことだ。

non-doershipの受け身バージョンというのは、「ただ物事が勝手に進んでいくままにさせる」みたいな感じだが、その段階ではしばしば解離(dissociation)の感じがまだつきまとっていることが多い。 というのも、その人の洞察レベルが、まだ本当にnon-dual(非二元)なレベルにまで到達していないからだ。 そしてアナッタによるnon-duality(非二元)が起きた後でさえ、その洞察と体験が熟していき、アナッタがtotal action(全的な行為)とtotal exertion(total exertion)に入りきるまでには時間がかかることが多い。 マイケル・ジャクソンの話を覚えているだろうか。 彼は、あらゆる「自分」という感覚が忘れ去られて、ただ「ダンスそのもの」になるまで踊った。 彼は蓮華座でじっと座っていたわけではなく、完全に没入していたという点に注目してほしい。 危険なスポーツをやる人たちも、しばしば「ゾーンに入る」経験を語る――自我が忘れ去られ、行為と環境とが完全な一体となるような状態だが、そこでは一つのミスが即、死につながるかもしれないという緊迫感ゆえに、生々しい生の実感とエゴの死が極限まで高まる。 しかし残念ながら、アナッタを悟っていない段階では、こうしたものはすべて一時的なピーク体験にすぎないのであって、特別な偉業に挑まなくても、アナッタの realization(気づき・悟り)によって、日常のごく普通で平凡な行為までもが、仏性(buddha-nature)とtotal exertionの驚くべきはたらきとして輝き出すのだ。

ただし上で挙げた人たちは、単なる「受け身のnon-doershipの体験」をしているだけではないのに、自己感覚は完全に溶けている。 その違いは何か。 彼らは「ただ受け身で物事が勝手に展開するのを眺めている」だけではない。 後ろに引っ込んで、どこか解離した観察者として、無関心に物事が流れるのをぼんやり見ているだけ、では全然ない。 彼らは全身全霊・全身全心で、完全にゾーンに入り、完全に集中し、完全に関わっており、その行為の中での意図も含めて、一挙手一投足が「主体と行為のすきま」「行為者と行為のすきま」「観察者と観察対象のすきま」をどこまでも細かくすり減らし、ついには何のすきまもなく、その活動そのものになるまで研ぎ澄まされていく。 それは「聞こえる音=ただ音であって、聞き手はいない」「見える景色=ただ色彩であって、見る者はいない」という受け身の体験だけでなく、「行っている行為そのものに、別個の行為者がいない」という、能動的な全没入の中での主客の溶解でもある。 それこそが真のnon-action(無為の行為)であり、それは単なる受動的な不活動という意味ではなく、自己感覚のないnon-dualな行為であり、「自分全体=この行為そのもの」というあり方だ。 それは、「行為者」という感覚がないだけでなく、「後ろから受け身で眺めている観察者」という感覚すらない、自己なしの全的な行為への完全な没入なのだ。

先ほども述べたように、アナッタが悟られると、non-duality(非二元)は自然な状態となり、もともと常にそうであったものとして明らかになる。 最初の洞察の直後には、人はまだ「ただリラックスして、感覚的な体験や出来事が、分離のない状態で勝手に現れては消えるのを味わう」といった受け身のnon-dualityにとどまりがちだ――たとえば、景色の鮮烈な輝きや明るさ、音、感触や香りの生々しさの中で、完全に自己を忘れてしまうような在り方であり、それはもはや入り口も出口もなく、ごく自然で力みがない――というのも、「見る」という出来事はただ色彩そのものであって「見る者」はいないし、「聞く」という出来事はただ音そのものであって「聞く者」はいない、と気づいているからだ。

しかしアナッタの洞察が成熟すると、活動のただ中に完全かつ切れ目なく入り込み、その活動の中で一切の自己感覚が溶け落ちる道が開かれる。 禅の「十牛図」の最後の段階は「入市」(市場に入る)と呼ばれる。 total action/non-action/non-dual actionという体験は、上で述べた「ゾーンに入る」感じに似ているが、重要なのは、これをあらゆる行為において、ごく自然な当たり前の状態として実現し、具体化していくことだ――それはアナッタを悟った後にこそ可能になる。 non-doership(やっている者がいない)という段階を越えてアナッタを悟った後は、もはや自我の痕跡を残さずに、活動そのものとして完全に関わることが、とても自然で力みなくできるようになる。 これは禅で強く強調されるが、テーラワーダの基本的な教えを正しく理解しても到達しうるものだ――https://awakeningtoreality.blogspot.com/2012/10/total-exertion_20.html に、私が禅僧と交わした会話について書いてあるので興味があれば見てほしい。

このnon-dualな行為は、やがてtotal exertionへと成熟していくが、これは曹洞宗や道元禅師のような教えの中で強調される。 total exertionとは、あなたが食べているとき、全宇宙が食べている、というようなものだ。 あなたが歩くとき、空も山々もいっしょに歩んでいる。 こうなると、どんな日常の出来事・活動も、その活動として全宇宙の無限さが発揮されていると感じられる。 Thusness: 「[Total] Exertionとは、“縫い目のない相互依存”が悟られた後、修行者が、『宇宙全体がこの瞬間を可能にするためにベストを尽くしている』と感じることだ。 道元の『舟を漕ぐ』比喩を読んでみなさい。」 Dogen: 「生まれるということは、ちょうど舟に乗るようなものだ。 あなたは帆を上げ、櫂でこぎ、舵を取る。 あなたがこいでいるにもかかわらず、舟のほうがあなたを運んでくれるし、舟がなければあなたは乗ることができない。 しかしあなたは舟に乗っていて、あなたが乗っていること自体が、その舟をその舟たらしめている……。 舟に乗っているとき、あなたの身心と周囲一切は、舟という一つの全く分かれないはたらきなのだ。 大地全体も大空全体も、どちらも舟という全く分かれないはたらきなのだ。」 「行くとともに無限の空が行き、来るとともに全大地が来る。 これが日常の心だ。」

だから、真のnon-actionとtotal exertionの地点まで洞察が成熟すると、解離や受動性や無気力という状態に落ち込むことにはならない。 その代わり、あらゆる領域で、本当に生き生きと完全に関わりつつも執着のない、生そのものを余すところなく生きるようになるのだ。

あなたの投稿から受ける印象では、いまのあなたは、non-doershipは感じているが、そこに解離っぽさと混乱が少し入り混じっているように思える。 しかし、もしAwakening to Reality(AtR)ガイドに沿って洞察と修行を深めるか、あるいは良い禅の師(とくに曹洞宗/道元の系譜には本当に良い師が多い)に出会ってtotal exertionへ導かれていけば、その問題は解決する。 あなたはここで述べてきたすべてを、実際に体験するようになるだろう。

ジョン・タン/Thusnessが以前こう言ったことがある。

「アナッタが成熟すると、起こってくるどんなものとも、いっさい区別も隔たりもなく、完全に溶け合っている。 音が生じるなら、完全に音として抱きしめきっていながら、執着はない。 同じように、人生においても、私たちは完全に関わりながら、なお執着なくあるべきなのだ。」 - John Tan/Thusness 「実のところ、そこに“無理して頑張る”みたいなものはない。 『I AMness(私は在る感)』の4側面はすべて、私が話したとおりアナッタの中で完全に表現されている。 もし“あらゆるところに生き生きとした在りようがある”のなら、どうして関わらずにいられるだろう……。それはビジネス、家族、スピリチュアルな実践など、いろんな領域に自然に関わって楽しむ傾向なんだ。 私はファイナンス、ビジネス、社会、自然、スピリチュアル、ヨガ……🤣🤣🤣、いろいろ関わっているよ。 私はそれを“努力している”とは感じていない……。 ただあれこれ自慢しなくていいし、“ただ”ノンデュアルでオープンでいればいいんだ。」 - John Tan/Thusness, 2019

「昨日、最近坐禅(メディテーション)を始めた友人に会った。 彼の彼女は、彼がそのうち出家するんじゃないかと冗談を言っていた。 私は彼にこう言った――毎日の坐る瞑想は、アナッタ(anatman)の悟りの後でさえ、とても大事だし、ましてやその前ならなおさら大事だ(https://www.awakeningtoreality.com/2018/12/how-silent-meditation-helped-me-with.html を参照)。でも、実践の大部分は、山奥のどこか隔絶した場所で引きこもることではなく、ほとんどは日常生活そのものの中での関わりなんだ。 それは自分自身と周囲の人々にとって、自然に恩恵となり、喜びとなる“市場(マーケットプレイス)の中の生き方”であって、みじめさではない。 それは完全に関わっていて、しかも自由なんだ。 禅師バーニー・グラスマンはこう言った。 『いちばん深い根本レベルでは、禅――というか、どんなスピリチュアルな道でも――は、「そこから私たちが何を得られるか」というリスト以上のものなんだ。 実のところ、禅とは、あらゆる側面におけるいのちの一体性の自覚なんだ。 それは“清らかな”とか“スピリチュアルな”部分だけじゃない――全部なんだ。 それは花や山や川や小川であり、そして都会のど真ん中や、42丁目にいるホームレスの子どもたちでもある。 それは澄み切った空であり、曇った空であり、スモッグのかかった空でもある。 それは、澄んだ空を飛ぶハトであり、その澄んだ空の中でフンをするハトであり、そのフンの上を歩く私たちでもある。 それは庭で育つバラであり、居間の花瓶で輝く切り花のバラであり、私たちがそのバラを捨てるゴミであり、そしてそのゴミを捨てるコンポストなんだ。 禅とは、いのち――私たちのいのちそのものなんだ。 それは「あらゆるものは、ただ私自身の表現にすぎない」と気づくことだ。 そして「私自身」とは、あらゆるものの完全な表現にほかならないんだ。 それは限りのないいのちなんだ。 こういう生のあり方には、いろいろなメタファーがある。 でも、私がいちばん役に立つ、いちばん意味深いと思うたとえは、台所から来る。 禅の師たちは、何一つ抑え込まず、完全に、徹底的に生き抜かれる人生を“究極の一膳(the supreme meal)”と呼ぶんだ。 そして、その“究極の一膳”の人生を計画し、料理し、味わい、供し、捧げることのできる人を“禅のコック”と呼ぶんだ。』 『「しかし、なぜあなたのような尊い年長の修行者が、典座(台所の責任者)のような大変な仕事なんかで時間を浪費するんですか?」と道元は食い下がった。 「なぜ坐禅の修行や、祖師方の言葉の研究に、もっと時間を費やさないのですか?」 その典座は大笑いした。まるで道元がとんでもなく可笑しいことを言ったかのようにね。 『「親愛なる異国の友よ」と彼は言った。「君はまだ、禅の修行が本当は何なのかを理解していないのがはっきりわかる。 チャンスができたら、ぜひ私の寺に来てくれ。そこでこのことをもっとじっくり語り合おう。」』 そして彼はキノコを集め終えると、それを持って、長い道のりを自分の寺へ戻っていった。 道元はその後、本当にその典座の寺にも、そして他の多くの師にも参じて学んだ。 日本に戻ったとき、道元は名高い禅師となっていた。 しかし彼は、中国でその典座から学んだ教えを決して忘れなかったんだ。」 - 禅師バーニー・グラスマン, 2019年にSohが引用

「禅では、“悟り”とは活動そのものへの完全な統合を意味する。 そのような統合の洞察が欠けているなら、それは“禅における悟り”ではない。」 - John Tan, 2010 「私の日々の営みは、とりたてて特別ではない。 私はただ自然に、それらと調和しているだけだ。 何もつかまず、何も捨てない。 どこに行っても、障りも対立もない。 誰が朱や紫の“位”を割り当てるというのか。 山々の最後の一塵さえも滅してしまった。 [私の]神通妙用とは――水を汲み、薪を運ぶことだ。」 - 龍舒居士・龐居士(Layman Pang)への言及 古い禅語にこうある――「悟りの前は、薪を割り、水を運ぶ。 悟りの後も、薪を割り、水を運ぶ。」 さらに参照:2012年に私が禅僧と交わした会話「Total Exertion」 http://www.awakeningtoreality.com/2012/10/total-exertion_20.html

「あなたの言ったことはとても良い。 私はちょうど、Thusnessと『This Freedom』というトニー・パーソンズの新しい本について話した内容を思い出した。 私はThusnessに、“自由とは何か”と尋ねた。 自由とは、“自分が好きなことをやりたい放題にやる”ことではない――それはまだself-view(自己観念)だ。 それはまた、主客や生死の二分という枠組みの中で、ただ絡め取られずにいるだけ、ということでもない。 アナッタとemptiness(空)の悟りは、“自己”と固定化された構成物を手放し、その結果として、人工的な境界線や妨げも溶けてしまう。 人工的な構成物が溶けると、もともと自然で、原初的で、汚れがないものが、あらゆる関わりの中で自ずと現れる。 もしそうならないなら、人は依然として、“究極のノンデュアルなもの”という観念にまだ絡め取られ、停滞した水の中で溺れている危険がある。 だから、二元性の枠組みから自由になったnon-dualの理解と、そのnon-dualの悟りが、エネルギーと慈悲に満ちた自発的な行為として実際に展開されることとは、違いがあるんだ。 Thusnessが私に示したように、自由は、単なる非執着としてだけでなく、生命力と力強さに満ちた無限の表現として、直接感じられ、生きられなければならない。 だから、非執着という道だけが明瞭になるのではなく、限りない慈悲と、力強いviriya(エネルギー)という道もまた、直接に感じ取られ、生きられなければならない。 人工的な構成や二元性に縛られなければ、行為は自然で自発的になる;“自己”がいないので、ためらいも障りもない。 もし人が、自由をただ“非執着”としてだけ見ているなら、その人はアナッタの体験的な洞察の巨大な一部を見落としており、なぜミパム(Mipham)が、仏のポジティブな徳性をこれほどまで強調しつつも、シェントン(Shentong)的な立場に落ち込まないよう強く語るのかを理解できなくなる。 たとえばThusnessが私に「恐れとは何か」と尋ねたとき、私は主に心理的な要因や執着の話をした。 しかしThusnessが私に見てほしかったのは、恐れは単に非執着によってだけ乗り越えられるのではなく、無限の生命力とエネルギーの感覚によっても乗り越えられる、ということだった。 ところで、あなたはヨガや何らかのエネルギー系の実践をしている?」 - Soh, 2016

「そして、それを本当に体験すると、その人は“光明する明るさ(radiance bright)”を帯びて見える。 つまり、あなたがその人を見ると、“本当に輝いている”ってわかるんだよね? なぜなら、その人がnon-dualityを体験すると、もうつかみ続けるものがなく、ただ明るさ(luminosity)だけになるからだ。 そこには、ただ純粋な存在感、明晰さ、すべてのものの明るさがある。 どういうわけか、どこからともなく湧き出る最高の喜びとエネルギーが、その人を養い続ける。 それがその本性なんだ。」 - John Tan, 2007, https://www.awakeningtoreality.com/p/normal-0-false-false-false-en-sg-zh-cn.html

私は今でも覚えているが、何年も前、ある人がno-selfやnon-doershipの洞察を語ったとき、ジョン・タン/Thusnessはまず「熱烈なエネルギーは湧き上がったか?」と尋ね、「アナッタの洞察はアクティブなモードに持っていくのが望ましい」とコメントしたのだ。

Update 2025: 私がこの文章を元々書いていた相手には、アナッタの最初のブレークスルー以上のことを、その時点ではあえて詳しく語らなかった。 その段階の人にあまり多くを一気に与えるのは、圧倒になりすぎるからだ。 しかし強調しておきたいのは、上で述べた洞察は、たとえ真にアナッタ(anatman)を悟った後であっても、実はまだ始まりにすぎないということだ。 さらに多くの洞察は、時間とともに自然に開けてくる。 もう少し説明するために、ジョン・タンの言葉をいくつか引用する。 「アナッタは、“現れているものすべてを自分の光明(radiance)として認識できるようにする”ことだ。 だが、それだけでは、まだ本来のアナッタとは言えない。dependent originationの認識がなければならない。 つまり、人は、“体験している者がいて体験している”とか“聞き手がいて音を聞いている”とか“見る者がいて風景を見ている”といった主体感は、約束的(コンベンショナル)な構築物にすぎず、実在しないのだと気づくことで、アナッタを悟ることができるが、それでもなおdependent originationとその含意を悟っていない場合があるし、その逆もある。 だから、アナッタ、dependent origination、そしてemptiness(空)――それらを両方とも。 それから、dependent originationと、名目上の構成物(nominal constructs)と因果的な働き(causal efficacy)との関係。 それから、dependent originationと“spontaneous presence(自ずからの現れ)”。 そして“natural perfection(自然な円満さ)”。 これらすべてが明晰でなければならない。」 「それは、“自己がない”という洞察が、一元論(monism)にまとめ上げられてしまうこともありうる。 また、“自己なし・本質なし”というところまでは見抜いていても、dependent originationが“八つの否定(Eight Negations)”という極端から自由であることを、まだ洞察していない場合もある。」

「Eight Negations(八つの否定)についてSohが述べたことを挙げよう。 「いわゆる『Eight Negations』とは、“不生・不滅・不断・不断常(不常住)・不一・不異・不来・不去”を指す。 このEight Negationsの主眼は、有情(生きとし生けるもの)が自分自身や万物に“固有の自性がある”としがみつくことを打ち砕くことにある。 つまり、dependent originationにもとづいて生じる現象は、本来的に空であり、つかまえられない(unobtainable)ということだ。 だが、普通の人たちや、外道的な修行者、ある程度の悟りを得た人でさえ、あらゆる現象が空であることを見抜けないことが多い。 彼らは、日常的なレベルの“現実性”から形而上的なレベルの“現実性”に至るまで、ものごとが本当にリアルだとしがみつき続け、その“固有の自性”への妄想的な見方を超えられない。 こうした“自性あり”というこだわりはいくつもの形で現れる。 ・時間という側面では:永遠性(常住)と断滅という見方。 ・空間という側面では:“一つである”と“異なる”という見方。 ・時空の運動という側面では:“来る/行く”という執着。 ・現象の真実のあり方という側面では:“生じる/滅する”というこだわり。 これら八つの測り方(“生じた/消えた/来た/行った/一だ/異だ/常だ/断だ”)こそが、有情を混乱させる根本原因であり、それは中道(Middle Way)とは合致しない。 そこで龍樹菩薩(ナーガールジュナ)は、この“Eight Negations”を立て、あらゆる“何かを得た”という錯覚を打ち消し、得るべきものが本当は何もないという中道を示した。 古人はこう言う。 「“Eight Negations”という妙なる法風は、妄想や概念的こわだりの塵を一掃し、“何も得るべきものはない”という正しい洞察の月は、中道という現実の水面に浮かぶ。」

さらに、「Dark Night of the Soul」「脱人格化(Depersonalization)」「解離(Dissociation)」「現実感喪失(Derealization)」といったテーマも参照してほしい、という指摘で締めくくられている(ラベル:Anatta)。